高塚山(たかつかやま)ハイキングと徳川道(とくがわみち)

昨日は住んでる施設のハイキング企画で、北へ2~3kmの近場にある標高186mの高塚山へ行って来た。

14名の参加でスタッフさん3名も入れて総勢17名、登山口まではバスの往復でトータルの歩行距離は5kmくらい、途中ローゼンファームカフェという店の仕出し弁当を食べる休憩も入れて、ドア~ドア約4時間半の無理の無い設定であった。

最近、低山登りにご無沙汰しているので、足慣らしと思い参加させて貰ったのだが、私にとって思わぬ嬉しい収穫が得られたハイキングになった。

山の出口に降り立ったところコース説明の看板が有り、どうやら我々が通って来た道は「徳川道」と名付けられた古い道の一部であったらしいことがわかった。

その名前に興味が湧いて帰宅後色々調べて見ると、今まで知らなかった神戸の歴史の一端に繋がっていることがわかってきた。

「徳川道」は当時正式には「西国往還付替道(さいごくおうかんつけかえみち)」と呼ばれたもので、その由来は幕末の慶応3年(1867)12月7日の兵庫開港に当たり外国人居留地を港に隣接して設けることになったことに遡る。

その居留地は海沿いの西国街道(旧山陽道)に面しており参勤交代など武士の往来も頻繁であり、攘夷排外思想が盛んな折から不測の事態が予測された。

(例えば文久2年(1862)には、薩摩藩の行列を横切った英国人が藩士に斬殺された生麦事件があり薩英戦争の原因になった)

この為幕府は開港までの5ヶ月弱の突貫工事で、居留地を迂回する道を完成させることを計画しやり遂げた。

その道は、現在の東灘区と灘区の境界に当たる石屋川の西側の西国街道を起点にして摩耶山(まやさん)、再度山(ふたたびさん)の北側を通り西へ向かい、高塚山などを経由して明石の大蔵谷で西国街道に再びつながる全長34kmの付け替え道であった。

然し開港の僅か2日後「王政復古の大号令」が発せられ維新の激動に直面すると共に、翌慶応4年(1868)には居留地付近のみを迂回する公道が新たに作られ「西国往還付替道」は僅か数ヶ月で廃止され「徳川道」という取って付けたような名前が残ったようである。

我々は150年以上の時を経てこの涙ぐましい突貫工事の跡を知らずに歩いたことになる。歴史を追いかけていると時折このような思いがけない出逢いに遭遇することがある。

🔘頂上展望台から

コース途中の景色

途中の植物

ホタルブクロ

イヌビワ

イタチハギ

ヤマボウシ

ヤマアジサイ

スイカズラ

ハンノキ

ハコネウツギ

オオキンケイギク

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🔘今日の一句

 

郷土史を刻む小道や青葉山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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