空襲のない日常――『この世界の片隅に』と朝鮮半島の危機


 米朝間の戦争を強く危惧する。
 いろんなことはこの間あるけども、これほど重大な政治問題はない。
 北朝鮮への事実上の出撃拠点となる在日米軍の基地があり、アメリカとの軍事同盟国ともいうべき日本が、ミサイル、テロ、大量破壊兵器の標的となることを恐れる。
 大げさだとか、そんな段階じゃないだろとか、いろいろ言われようとも、ぼくはそう叫ばざるを得ない。
 自分を含めた日本に住む人間が死ぬかもしれない、ということで、ぼくの危惧が高まっていることは明らかだ。シリアで毒ガスやミサイルによって人が死んできたことも確かに重大だったが、今ぼくの中で「やばい」という感情が高まっているのは、「日本に住む人間の犠牲」の可能性が高まっているからだということは率直に認めなければならない。


北朝鮮を攻撃すればソウルで死者100万人以上 | BUSINESS INSIDER JAPAN 北朝鮮を攻撃すればソウルで死者100万人以上 | BUSINESS INSIDER JAPAN


 主権者である日本国民、その一人として、何をしなければならないか。
 米朝それぞれの政府に働きかけるという手段はあるとは思うが、日本政府に働きかけることだ。そんなキレイごと、一人で何ができる、と言われるだろうが。
 具体的には、米朝それぞれに対して決して軍事対応をしないように日本政府に働きかけさせることである。米朝どちらが悪かろうと、とりわけこの間の北朝鮮の核開発やミサイル発射がどう悪かろうと、そのこととは区別して、軍事対応をやめるように求めるべきである。
 わが主権国家を動かすということが、日本における政治的メンバー=国民・公民・市民としての仕事だろう。
 現在安倍政権は、アメリカの軍事圧力に支持を与えている。
 こういうことは本当に恐ろしい。
 やめろ。
 「そんなのは北朝鮮の脅しに屈服することだ。対話と圧力には軍事的圧力も入るのだ」と言われるかもしれないが、そういう勇ましい「正論」をかざした挙句に軍事的な犠牲を引き受ける覚悟はぼくにはない。どんな犠牲があるか、そこにどういう責任が生じるかを考えずに「勇ましい主戦論」を唱えることは軍事的な犠牲の恐ろしさを知らない、真の「平和ボケ」ではなかろうか。

請願でモノを言おう

 もっと具体的に言えば、請願法に基づく請願を、内閣や総理大臣に対してすることができる。


 わずか6条から成るだけのこの法律。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO013.html
 
 「請願は、請願者の氏名(法人の場合はその名称)及び住所(住所のない場合は居所)を記載し、文書でこれをしなければならない」(第2条)、「請願書は、請願の事項を所管する官公署にこれを提出しなければならない」「請願の事項を所管する官公署が明らかでないときは、請願書は、これを内閣に提出することができる」(第3条)。
 ほぼこれだけだ。
 名前と住所を書いて、請願事項を書いた書面を、内閣に送れば、それで請願法に基づく請願となる。間違ったところに送っても「請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは、その官公署は、請願者に正当な官公署を指示し、又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない」(第4条)とあるように、届けるべき部署に届けてくれる。
 そして送られた側は、「受理し誠実に処理しなければならない」(第5条)。


 日本政府として米朝政府に対して軍事対応をやめるように求めること。アメリカの軍事対応を支持・理解しないこと――これを請願すべきだ。

『この世界の片隅に』を観た一人として

 『この世界の片隅に』を観て、観た人が思ったことはいろいろあるだろう。
 だけど、空襲という現実をくり返してはいけない、という問題を多くの人はどう考えているのだろうか。そんなことは微塵も感じなかっただろうか。日本に空襲が起きる、日本が戦争に巻き込まれる、という現実は、自分とは関係のない、ただの涙を消費する「お話」だったのだろうか。
 ぼくはオタクであると同時に、コミュニストである。
 虚構を見てわくわくした感覚と、一見融通がきかなそうな、つまらない現実は、『この世界の片隅に』を見ていようがいまいが、地続きだ。コミュニストとしては、戦争という現実を阻止するために、政府に働きかける。右派には右派の選択があるかもしれないが、それとは別の次元にある人たち、つまりあの物語を見て、この事態が迫っていることについて、何もしないというのは、一体どういうことなのだろう。そのことに怒っているというのではなく、不思議なのである。
 何かをしてはどうだろうか。

日米安保条約は極めてリスクが高い、不要なものである

 具体的に今すぐ何かをする、という問題とは別に、根本問題についても考える。
 日米安保条約によって米軍は日本を守るために存在するのではなく、極東(朝鮮半島や中台)および世界への米軍の出撃拠点になっている以上、日米安保条約を結んでいることはメリットではなく、ただのリスク、しかもきわめて重大なリスクであり、それは「今そこにある危機」になってしまっている。
 日本が不条理に着上陸侵攻されるわけでもない事態なのに、日米安保条約があることによって、日本が米軍の戦争に巻き込まれ、軍事攻撃を受けるリスクにさらされているからである。
 『この世界の片隅に』が今と「地続き」だと言われるが、「地続き」であった戦後に朝鮮戦争があった。
 朝鮮戦争の最中に日米安保条約は結ばれ、朝鮮戦争終結(休戦)の7年後に安保闘争(安保条約改定反対闘争)があった。自民党政権が支持され続けた問題とは別に、当時安保条約に批判が大きく、自民党でさえ結党時(1955年)に「駐留外国軍隊の撤退に備える」と綱領(政綱)に盛り込まざるを得なかったのは、その表れである。
 第二次世界大戦が終わって、日本がおびただしい被害を受けてから十数年ほどの間、「2度と戦争には巻き込まれたくない」という意識が日本国民には根強く、それを現実的に脅かしていたのが隣の朝鮮戦争であり、安保条約とその改定は「日本が戦争に巻き込まれるかもしれない」という現実的不安としてそこにあった。
 実際に、朝鮮戦争で米軍占領下の日本国民の動員は行われた。国鉄や船員や看護師である。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2006/02/post_992.html

 そうした中で、「いやもう戦争に巻き込まれるのはこりごりですわ」と思うのは自然な感情である。
 「日本がアジアを侵略する」とかいうイメージではなく、戦争を起こす勢力のやることに「巻き込まれて」しまい、不条理な被害を被るというイメージ。それが事実かどうか別にして。それは第二次世界大戦の時と、朝鮮戦争の頃と連続している。


 横田の米軍基地には、国連旗が掲げられている。
 休戦状態にあるが、横田にいる「朝鮮国連軍」は事実上の米軍であり、形式の上では、いまなお北朝鮮と戦争をしている当事者の基地なのである。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/fa/page23_001541.html


 日本に自衛隊があることは、リスクではない。
 長年の政府の憲法解釈(安倍政権以前)が「自衛隊は個別的自衛権しか行使せず、必要最小限度の実力である」ということでいこうというなら、政府としては今後それでいいのではないか。「急迫不正の侵害があるかもしれず、そのための備えとして残しておきたい」という気持ちに応えるのは、至極まっとうなことだ。
 「日本に武力があること自体が問題だ」「今すぐ自衛隊を廃止せよ」という人はいるだろうが、そんな意見につきあう必要はない。
 他方で、日米安保条約にはほとんどリスクしかない。
 今回の危機でそのことがむき出しになってしまった。*1
 なぜ在日米軍基地を抱えて狙われるリスクを、ぼくらは甘受しないといけないのか。
 いらないだろ、こんなもの。
 『この世界の片隅に』を観たぼくとしては、「空襲のない日常」「空襲が突然忍び込んで来ない現実」を求めるなら、日米安保条約は第10条にのっとって整然と「終了を通告」すべきだと考える*2。

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第十条
 この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合衆国政府が認める時まで効力を有する。
 もつとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/jyoyaku.html

*1:安保法制は、安保条約を直接の根拠にしたものではなく、日本がアメリカに対して従属的な同盟を組んでいる政治路線から生じたリスクだった。

*2:今、このタイミングで言うかどうかは別にして。