社会学者の研究メモ

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『社会学はどこから来てどこへ行くのか』出版によせて

今月(2018年11月)、四人の社会学者の対談集、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』が出版された。私以外の三人は、社会学の世界に限らず高い認知度があって、どういったいきさつからか、そこに私も混ざっているのだが、いくばくか場違い感があるのは否めない。

社会学はどこから来てどこへ行くのか

社会学はどこから来てどこへ行くのか

私はどちからといえば、他の三人と比べて制度としての社会学の世界に浸かっている度合いが強い。社会学会、家族社会学会、数理社会学会では面倒な≒重要な役を仰せつかっているし、大規模な調査プロジェクト(SSMやNFRJ)に参加しているし、そういったしがらみのなかで雑務に追われるのが日常だ。一日の仕事時間の1/4くらいは、広い意味では学会関係の仕事をしていると思う。twitterをみる時間もあまりない。といっても、ネットの世界は最近は社会学への悪口ばかりなので、いっそのことみなくてよいのかもしれない。

さて、対談に寄せた他の三人の思惑は必ずしも同じではないだろうが、なんとなしに、同じ方向に視線を向けているようにも思う。岸先生が「はじめに」のなかで書いている。

社会学は変わりつつある。それは、職人たちが特定のテーマと特定の方法で、広い意味での社会の問題に取り組んでデータと知見を蓄積する、「普通の学問」である。私たちは、理論であれ量的であれ質的であれ、社会のなかで、人々とともにある。それがどこから来て、どこへ行くにしろ、このことは変わらない。(本書5頁)

もっと言えば、「普通の学問」としての社会学は、メディアや一般受けする言説の世界とは少し離れて、常に存続してきたのだ。私の言葉で言い換えると、社会学は「しょせんそういうものだ」という自己認識を再確認しつつある。そういう意味で、かつての綺羅びやかなイメージから、本来の地味な存在に「変わりつつある」ということになるだろうか。

80年代から90年代にかけての、社会学の派手なイメージの背景には、社会の包括的な理解としての「社会理論」研究があったことは確かだろう。フランス現代思想を取り込んだ(あるいは「乗り越えた」)抽象的な理論言説は、それこそ社会の総体のみならず、女子高生からオウムに至るまで、直近の社会現象をも首尾よく説明しているかのような雰囲気を醸し出した。

稲葉先生が、本書の出版にあたって関連した記事で書いてくれている。

この時代における日本の社会学は、いわゆる「現代思想」、ポストモダン哲学、フレンチ・セオリー(もちろんフーコーもその中に数え入れられる)の強い影響を受けた、理論的百花斉放の時代であった。筒井はどうか知らないが、稲葉も岸も北田も、まさにその時代の空気をいっぱいに吸い込み、その時代ならではの「黒歴史」を抱え込んでいる。

せっかく触れてもらっているので、少し当時の私についても書いておこうと思う。

私も「その時代の空気」を吸っていた一人だ。フランス現代思想の著作は、一人の思想家につき1〜2冊程度だが、読んでいた。浅田彰も読んだし、橋爪の「はじめての構造主義」も読んだ。ついでに、なぜかフロイトとユングが好きだったから、全集を買って読んだ。ゼミの方針が原典主義だったので、つらい思いをしながらフーコーをフランス語で読んでいた(といっても、原語で読んだのは「性の歴史」の一部だけだったが)。そもそも学部の頃は哲学志望だったので、ドイツ語で主にハイデガーを読んでいた。

結局哲学を辞めて、大学院時代は社会理論研究をしていたのだが、それもしばらくしてやめてしまった。ひとつのきっかけはウィトゲンシュタインだったと思う。ウィトゲンシュタインに触れたのは、当時同僚だった前田泰樹君(現在は立教大学社会学部教授)の影響だった。どういう心の変化があったのかはうまく説明できないのだが、自分の中で「理論」というものの位置づけが、本(古典)の中から、研究対象としての人々のなかに移行しつつあった。

そのあとはひたすら実証研究である。ほとんどは、量的データ(調査観察データ)を使った研究だ。その世界にどっぷりと入り込んだ。そこで、二つの経験をした。

最初に生じた変化は、社会学ではない他の分野と研究とのつながりを実感したことだ。量的研究の言葉は、統計学をはじめとして、分野を横断して共有されている。当時はそうした「標準科学」の世界の住人になったのだと思いこんでいて、「理論研究」と称してなぜか学説研究をしている社会学の世界が、ひどく遅れているようにも感じていた。(ただ、理論研究が学説研究と混ざりやすいという社会学の特徴も、いまでは理解できる。)

次に生じた変化は、社会学の計量研究が、あまり他分野のそれと混ざり合わないことへの疑問を感じ始めたことだ。

ある学問を別の学問と意図的に差異化したり、分断したりする必要はまったくない。しかしそれでも、実態としての差異は残る。それをちゃんと理解すれば、余計な悩みも減るのではないか。計量研究についてのこの問いへの答えは、『現代思想』に寄せた「数字を使って何をするのか:計量社会学の行方」という論考で展開した。

現代思想 2017年3月号 特集=社会学の未来

現代思想 2017年3月号 特集=社会学の未来

この時期、有斐閣から企画をいただいた。『社会学入門』である。

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

『社会学入門』は、「社会学の問いや方法は、普通の人々の問いや方法の延長線上にある」ということを、(稲葉先生の言葉を借りれば「臆面もなく」)前面に出した教科書だ。もう少し言えばこうなる。学問では、理論や方法が、人々のそれとかなり隔絶した独自の体系となっている。経済学がそうだろうが、その「距離」が社会変動や人々の行動の理解の武器になることはよくある。他方で、個々の社会問題の理解について、その距離化が裏目に出ることもある。

社会問題は、それ自体多様で、異質な人々が交錯するところにあり、また時代と社会に応じて移ろいやすい。こういった社会問題にアプローチするには、もう少し人々の問い/方法/理論(概念)の方に近づいていく必要がある。この方向を突き詰めるのがエスノメソドロジーだが、それ以外の社会学も、問い、方法、理論を人々のそれから受け取っている度合いが(他の学問に比べて)格段に強い。

だから、経験社会学における理論の多くは「緩い」ものになりがちだ。というのも、人々の概念が緩いからだ。同じ前提から複数の(しばしば矛盾した)結論が出てくるような、あまり演繹的ではない「理論」が展開されることもしばしばである。

なぜ、こういった理論の「緩さ」が生じるのでしょうか。それは、社会学の理論の多くが日常生活における概念連関を参照しながら行われるからです。(『社会学入門』205頁)

こんなふうに書いてしまうと誤解を生じやすいかもしれない。というのも、人々の概念連関への参照、つまり距離が近いことは、社会学のある種の素人くささ、いい加減さにも結びついているからだ。

しかし、「素人くさく」あることは、それはそれでけっこう大変なのだ。知的に誠実であろうとする限り、緩さと距離化の違いがもたらす帰結に、向き合わないといけないからだ。

実際に「距離を縮める」ことは、「距離をとる」ことと同じくらい、大変な作業である。なぜなら、人々の概念に近い場所で思索し、かつ知識の妥当性をある程度確保しなければならないからだ。計量調査でも、概念理解が前提になる。なので、社会学の調査では、量の決定が質的に(人々の概念を参照して)なされることが多い。質的調査では、人々の「語り」の真実性という問題に直面する。知識の妥当性を確保する方法は、いずれも単純ではない。

いったい、「ふつうの社会学者」はどうやって知識の妥当性を確保しているのだろうか。この話題は、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』でも少し触れられている。ぜひ読んでいただければと思う。