なぜ、わざわざゲームを酷評する必要があるの?【ゲームライターの日常 S3】
光と影、高評価と低評価
IGN JAPANに掲載されたとある低評価なレビューに対し、「なんでそこまでのゲームをわざわざレビューしなければならなかったの?」という感想が書かれていました。
なるほど確かに、酷評はゲーム開発者も心を痛めるでしょうし、いいゲームだけを知りたい読者にとっては不要でしょう。そのゲームが好きな読者にとっては不快かもしれませんし、低評価をつけるライターだってその行為に緊張するかもしれません。
ゲームを低く評価するなんて行為はたいていつらいものですし、下手をすれば恨みを買う可能性もあるわけで、しないほうがいいと考えるのもわからなくもありません。では、なぜわざわざそんなことをするのか、改めて考えてみましょう。
書く側の「酷評レビューが必要な理由」
身も蓋もない話ですが、まず1点目として「これは仕事である」というのが重要です。僕のようなフリーライターはレビューを依頼された時点で、どのような評価になろうともきちんと記事を完成させなければなりません。
もちろん趣味ならつまらないゲームは適当に無視すればいいのですが、業務としてきちんと評価を行う以上はそういうことはできないわけです。レビューは結果ありきではなく、遊んだ結果として出力されるものなので、高評価であろうと低評価であろうと評価を定めなければならないのです。
そして2点目は、「そもそもなぜ酷評がいけないのか」というものです。最初に酷評レビューを避ける理由を書きましたが、それらは残念ながら決定的な問題とはなりません。場合によっては、自分の関わった作品が低評価を受けて喜ぶゲーム開発者もいるのを知っています。
そもそも、ゲームメディアは広告代理店ではないのです。もちろんゲーム作品・業界を応援しますが、困ったゲームをユーザーに推奨する必要はありませんし、優れたゲームでも課題があればそこを指摘してもよいわけです。
むしろ読者に寄り添うという意味では、作品の魅力はもちろん、問題点もきちんと指摘しておくべきでしょう。これは単に欠点を指摘する行為に留まらず、そのジャンルの進化の可能性を見出す行為にもなり、どういうゲームがおもしろい、あるいはつまらないのか考える機会にもなるのですから。
読む側の「酷評レビューが必要な理由」
ふたつ理由を書いてみましたが、これはあくまでゲームレビューを書く側の都合なので、読者の皆さんが納得するかというと微妙なところですよね。というわけで、もう少し違う理由も考えてみましょう。
まず「読者は賢い」という理由があります。ゲームライターは文章のプロなので、つまらないゲームをおもしろそうに書くことも可能です。しかし、適当かつ無難に書いていると、なんとなく読者は勘付くものだったりします。
そもそもの話、読者はひとつの記事に書かれた情報を真に受けるわけではありません。自分で遊んでみた感覚、周囲の人たちが遊んだ感想などと照らし合わせることも可能なわけで、それとあまりにも乖離していると違和感が生まれてきます。
次に、「高評価のため」もポイントです。IGN JAPANのレビューでは10点満点で評価しているわけですが、もしこれが10点だらけだったら? もはやスコアが役に立たなくなってしまうでしょう。
もともとレビュースコアは抽象的で難解なものではありますし、あまりにも優れた作品が大量に出た場合は10点連発もありえます。しかし、そうだとしても評価が偏ってしまうと困りますよね。低い評価があるからこそ高い評価がある。高評価と低評価はどちらもなければ困るものなのです。
そして「評価に正解を作らないため」というのも重要です。人間はついつい「これはおもしろい? つまらない?」などと極端に考えがちですが、そもそも評価はする人・場所・時間などによって変化するものでしょう。
ゲーム慣れしていない人が高難易度アクションゲームを遊んだら、特定のジャンルにおいて重要な進歩を遂げた作品について門外漢な人が遊んだら……。ほかの評価とは意見が変わって当然でしょう。同じゲームでも国内外で受け入れられるかどうか変わりやすいですし、昨今はアップデートやプレイヤー人口の移り変わりもあるので、いつ体験するかも重要です。
また、長所と短所は表裏一体です。何か出来事があって、それを誰がどう解釈するかによって評価は変化するわけで、その人によって変化する解釈を書くのがゲームレビューといえるでしょう。
つまり評価に正解はなく、好評と酷評はどちらもあってよい。極端に偏っているほうが不気味といえるかもしれません。ただし、評価に正解はないですが、評価における事実の誤認などはありうるので注意が必要です。
軟着陸としての酷評
僕が特に重要だと思うのが「問題点をきちんと指摘する」という部分です。世の中にはさまざまな酷評される作品がありますが、昨今はそれが「とにかく叩いてもいい存在」と認識されてしまいがち。
そうなるともはや酷評されるというよりは、サンドバッグ状態。とにかく叩ければいいという人まで集まってしまい、もはや評価とは言えない状況になってしまいます。インターネット全体の傾向で、ひどいゲームが出てくるとゴシップ系サイトやそういう動画はどうしても盛り上がるわけです。
そして、ゲームメディアが優れた作品ばかりを取り上げて、扱いづらい作品をひたすら無視してしまうと、この流れはより加速しがちになるのではないかと考えています。作品をサンドバッグにするのではなく、きちんと良い点も悪い点も評価することが、過度な思い込みを止めるひとつの方法になりうると思います。
また、作品の問題点を強く指摘しつつ長所を取り上げる方法もあります。具体的な例を挙げると『ファイナルソード DefinitiveEdition』のレビューですね。
このゲームは致命的にセンスがなくて笑えますが、では徹頭徹尾ふざけたゲームなのかといえばそうではありません。現代の3Dアクションを目指したものの、かなりの部分がうまくいかなかった作品であり、骨子はきちんと存在するゲームなのです。
『ファイナルソード DefinitiveEdition』はアップデートしてバグを潰すと、そのゲームを遊んでいない人から「前のほうがおもしろかったのに、クソアプデやめろ」なんて言われてしまったりするわけです。このゲームのおかしい部分で笑ってしまうのは理解できますが、いくらなんでもそれは言い過ぎですよね。かといって、このゲームのいいところだけを取り上げるのも正直どうかしています。つまり、軟着陸としての酷評もあるのではないでしょうか。
また、SNSでは同調圧力を強く感じる人もいるようで、周囲がおもしろいと言っているものをつまらなかったと言いづらいケースがあるようです(当然、逆もありえます)。評論家はそのあたりと基本は関係ないので、そういう読者のためにも言うべきことを言う必要があるのではないでしょうか。……というか、仕事なんだからそのくらいはきちんとしろという話ですね。
どうしても出てくる酷評を、いかに扱うか
ゲームレビューはライター個人が書く評論で、その記事は世界や業界の総意ではありません。そしてゲームレビューは、広告やゲーム会社との関係などが配慮されることはありません(少なくともIGN JAPANにおいては)。
となれば、高評価も酷評も出て当然でしょう。高評価しか出ないのは不自然な状況であり、いろいろな作品が世の中に出てくる以上、酷評も存在するのが自然といえます。
もちろん、ここに感情・金銭・人間関係などの利益が混ざるとややこしい話になってくるのですが、しかしこの原理は重要です。酷評はゲームレビューが自由であるための証拠のひとつであるといえるでしょう。
渡邉卓也(@SSSSSDM)はフリーランスのゲームライター。ゲームレビューをつけるときは点数にいつも悩むし困る。
「ゲームライターの日常 シーズン3」記事一覧はこちら。