ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
投稿日:2023.12.18 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
最近、「ストリートスナップ」という言葉をよく目にします。でも私が思っているのとだいぶ違うようです。ストリートというより、街なかで人物を撮ったのが「ストリートスナップ」と言っているんですね。個人的には「スナップポートレート」だと思うのですがまあクリスマスも近いし、めちゃ寒いし、どうでもいいような気もします。...
投稿日:2023.12.15 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
上から目線ということばがありますよね。写真も撮影という行為はどうしても一方的になります。相手が何であれこちらからの視線は向こうへと向かうからです。それを上から目線だと決めつけるわけではないのですがその可能性がゼロではないこともあり得るのではないでしょうか。物理的な位置ではなく、まなざしの方向なんですね。まあ、普段の撮影でそんなことを考える必要はないと思います。自分も楽しい、相手も楽しい、それがいち...
投稿日:2023.12.14 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
デジカメが幅を利かせ出したころ、デジタル画像ののっぺりさが気になっていました。やがてデジタル画像の空々しさが気になってきました。でも今はどちらも、かつてほど意識しなくなりました。どうやら慣れは人を麻痺させるようです。「慣れは怖ろしい」とどこかでナレーターが言っていたような、いないような・・・...
投稿日:2023.12.12 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
写真は記憶というものを強力に意識させるメディアだと思います。人間は、単純に言えば記憶でできていると思うのですが自分が撮った写真と、撮った時の記憶にズレが生じることは誰でも経験しているのではないでしょうか。それは、自分が記憶していることは必ずしも正確ではないことを意味します。つまりそんなあやふやなことを土台にして毎日を送っているんですね。...
投稿日:2023.12.11 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
前にも書いたので同じことの繰り返しになりますが写真を撮るということは程度の差はあれ、人を傍観者にさせるところがあると思うのです。自分が直接に関わっていないのに関わっているような気にさせる、自分が傍観者になっているかもしれないことを考えなくさせる、カメラにはそんなところがあるということですね。綺麗な風景の中にいるのに、スマホを含めたカメラで写真を撮ることに夢中になってしまうのは、実際には景色に触れて...
投稿日:2023.12.04 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
写真の投稿だけです。...
投稿日:2023.12.03 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
写真の投稿だけです。...
投稿日:2023.12.01 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
それを撮った三次元の私と、私が撮った二次元の写真。両者は無関係ではないですが、完全に重なるわけではありません。それは頭でわかっていても、自分が撮った写真には愛着みたいなものがあるのは仕方のないことですよね。人間だもの。ただそうするとその写真を他人事のように見ることはできなくなります。評価を誤るというより、評価そのものが出来なくなるのです。たぶん、一流と言われている写真家は自分の写真を他人が撮った写...
投稿日:2023.11.29 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
言うまでもなく写真は平面のアートであることは分かっているのですがそのことを意識化することは、結構むつかしい気がします。目の前の光景は三次元ですから、立体的に写真を撮ろうとします。でも、三次元を二次元にすることですからそこに無理が生じて、現物と写真とに差異が出てきます。それが写真の面白さだと思うのですがその面白さを捉える、表現するのは、これまた難しいんですね。...
投稿日:2023.11.26 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
写真の投稿だけです。...
投稿日:2023.11.25 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
写真の投稿だけです。...
投稿日:2023.11.18 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
写真の投稿だけです。...
投稿日:2023.11.17 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
表現というのは自分が中心になると思うのですがコミュニケーションというのは相手が中心になると思います。そのため表現は相手に届かないことも受け入れる必要がありますがコミュニケーションは相手に届かないと成立しないものなんですね。写真のSNSなどを見ているとそのことが混同されている気がします。「繋がる」という言葉が使われますが表現を意識しているのかコミュニケーションを意識しているのかあいまいな気がするのです...
投稿日:2023.11.15 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
まだスッキリしないのですが投稿できるようになりました。多分大丈夫だと思います。ものすごく便利は、便利さが機嫌を悪くするとものすごく不便に変身します。写真についてもフィルムカメラは何となく仕組みが分かったのですがデジカメに関しては「どないなってんねん!」です。どないなってんねんカメラで、どないにもなっていない写真をこれからも撮れればいいなあと思っています。自分でも意味不明のことが言える、そんな普通、...
投稿日:2023.11.09 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
かつては写真を撮ること自体が楽しかったと思います。カメラは魔法の箱でした。今も、そのことは続いていると思うのですがそれよりも撮った写真で何かをすることを楽しむようになったと思います。カメラは魔法の箱でなくなりました。カメラの中にいた魔法使いは追い出されカメラの中にコンピューターという超能力者が入り込んできたのです。そして今、写真は目的ではなく手段になったようです。写真は終点ではなく途中、中間地点に...
投稿日:2023.11.06 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
選手に監督が「普通にプレーすればいい」と言っていたんですね。「ファインプレーは要らないのだから」とも。写真も「普通に撮ればいい」のかもしれません。でも「普通に」って何?「普通に撮って」いるとありきたり写真になって人との差別化が出来なさそうです。そうなると「ファインプレーが要るのでは?」と思ってきます。機材で?撮り方で?レタッチで?見せ方で?・・・「普通に撮ればいい」というのは普通に難しいのではない...
投稿日:2023.10.02 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
このところ惰性で写真を撮り続けている気がしています。ワクワクするからというのは、はるか遠くのことのようです。もちろん嫌々ではないのですが、半分義務みたいな感じもしています。何に対しての義務かはよく分からないのですが。たしかに撮影した3日ほどは、写真脳が興奮しているせいでしょうかちょっとした心地よさはあります。でもやがて冷めてくるんですよね。いいと思ったカットもそれほどでもないなということが毎回、約...
投稿日:2023.10.01 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
学問的、専門的なことは分かりませんが進化=いいことですよね。でも、進化と言うのはそれだけが単独で行われるモノなのでしょうか。もしかすると進化の量=退化の量で、量的には同じなのかもしれません。量と言うのは変なのですが、要はバランスと言うことではないかなと思います。たぶん、進化と退化は一つのモノゴトの陰と陽なのだと思います。写真もデジタルになってずいぶん進化しました。撮る時代から作る時代になったとも言...
投稿日:2023.09.30 カテゴリ:天王寺・阿倍野・新世界・日本橋
今は写真を見せても、「それ、写真に写っているから怪しいな」と言われる時代になったのでしょうか。フェイクの代表みたいなものが写真(動画は連続した写真です)です。「証拠写真」「アリバイ写真」が信用されなくなってしまいそうです。その写真を信じられるかどうかはその写真を提示している人を信じられるかどうかだというややこしい時代になりました。「写真」は「捨真」になりました。スマホの画面で写真に写っている、レタ...