面白いのは、20世紀を振り返ってみると、すべての世代の親が社会的、技術的、文化的な抜本的変化に直面しており、育った環境は常に時代遅れのものになっていたということです。親はよく「子どもたちは自分たちよりも技術をよく分かっている」と言います。実際には、20世紀のほとんどすべての世代がそう考えていたのです。
親が抱える問題の1つは、自分たちとは違う若い人たちに対峙しなければならず、彼らは対処の方法を自分の親からは習っていないということです。彼らは、子どもたちがオンラインで直面している問題の多くについて語る言葉を持っていません。
数字を挙げるのは気が進みません。問題なのは時間の長さではなく、子どもたちが得ている経験の質を評価することです。それが彼らの成長にどう役立ち、彼らの目標とどう関係してくるかが問題です。
これは、デジタル技術の発展が健全に進んだ一例だと思いますね。体の健康に対する長期的な影響について判断するのはまだ早すぎると思いますが、確かに一定の可能性はあるでしょう。多くの親は、子どもが宿題が思うように進まなくていらいらするとすぐにやめてしまうのに、ゲームでいらいらすると夜遅くまで起きてゲームを続けたがるのを経験で知っているでしょう。では、どうすればゲームと同じように知識や学びについて子どもたちに興味を持たせることができるのでしょうか。ゲームは、彼らが新しいことを試し、リスクを取る気を起こさせるような形で役割やルールを定めています。だから強力なのです。
統計的に言えば、ゲーム機は少なくとも若い男性については、使用時間の長さではすでにテレビ以上になりつつあります。教育の観点から言えば、ゲームにはテレビと比べて多くの利点がありますが、欠点もいくつかあります。セサミストリートやNational Geographicのドキュメンタリー番組がすぐになくなってしまうようなことにはならないでしょうが、ゲームは世界について学ぶ方法としては本当に豊かな手段です。子どもは、情報をただ消費するのではなく、情報に基づいて行動することが出来ます。
わたしは、YouTubeの討論会は素晴らしいものだと考えており、共和党が同じプロセスに参加するのに消極的に見えることを不満に思っています。これはきっと1990年代にタウンホール討論が導入されて以来の、政治過程の非常に重要な革新だろうと思います。
伝統的な討論会では、候補者が質問者に対し、単に質問の内容に答えるために話をするだけでした。タウンホール討論会では、本人が物理的にそこにいて、その人の人生経験、人となりを参加者が認識し、判断材料とします。そのため、候補者が大衆と関わる様式を大きく変えるモデルが形作られるのです。しかし、有権者が全く不慣れな環境に引き入れられるという問題がありました。
YouTubeの討論会は、もっと市民による統制が効いた状態で行われました。市民は問題の枠組みを作るだけでなく、彼ら自身が動画を作る方法を選択するという方法で、その問題を具体化します。言葉は高尚なものではなくなり、地に足の着いたものになります。YouTubeでは権威は軽視されるので、候補者は普段の話し方を外れることを強いられます。これが、彼らが素早く違う決断をした理由です。
われわれは、参加型文化が参加型民主主義に融合する場面を見ているのであり、若い人たちがその最前線に立っています。若い人たちは、問題を取り扱う新しい言葉に興味を持っています。なぜなら、ここ20年〜30年の間、政治の言葉は活気のないものだったからです。政治の言葉は、もはや市民が考え、話すものと同じものではありません。
面白いのは、ソーシャルネットワークの利用が、有権者と候補者だけでなく有権者同士の繋がりも作っていることです。有権者自身がコミュニティの一部であると感じており、この世代は政治を社会活動だと捉えています。わたしは、ソーシャルネットワークとYouTubeの組み合わせは、今回の選挙で急速に現れ始めている新しい政治のスタイルを示しており、これは新しいメディア環境の時代の世代に合っているように思います。
もちろん、これもまたバランスの問題です。マルチタスキングがスキル化されつつありますが、もしこれが問題に本当に集中し、考え抜く能力を犠牲にしているのだとすれば問題でしょう。協調し、非集合的な知性のコミュニティで働く能力は本当のスキルだと思いますが、これが個人の自主性と自分で判断する能力を失わせるとすれば、それは潜在的なマイナス面だと思います。
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