近衛道嗣
表示
時代 | 南北朝時代(北朝) |
---|---|
生誕 | 元弘3年(1333年) |
死没 | 至徳4年3月17日(1387年4月5日) |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 |
光明天皇→崇光天皇→(後村上天皇)→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 直仁親王(東宮職) |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛基嗣、母:藤井嗣実の娘 |
妻 | 正室:洞院実夏の養女(洞院実世の娘) |
子 | 兼嗣、慈弁、良昭、日秀 |
特記 事項 | 後村上天皇出仕は正平一統時 |
近衛 道嗣(このえ みちつぐ)は、南北朝時代の公卿。関白・近衛基嗣と家女房の子。近衛家10代当主。
経歴
[編集]暦応元/延元3年従三位• 内大臣。右大臣、左大臣を経て康安元/正平16年関白・藤氏長者となる。号は後深心院。日記に『愚管記』があり、その中で足利義詮執奏の勅撰集『新拾遺和歌集』を衆人同意の勅撰集ではないと記し、義詮を批判している。『実冬公記』(三条実冬の日記)には、道嗣が足利義満とは昵懇であったが気遣いも多く、それが病を招き死に至ったとあり、詩歌はその道に達するほどではなかったが、当代においては数寄人と評され、その死は義満を落胆させたとの記述もみえる。なお二条良基選『菟玖波集』に漢文の序を寄せており、互いの親交がうかがわれる。
天授4年9月8日、『愚管記』にハレー彗星の観測を記録している。同10月15日、北朝は尊道入道親王を宮中に召し、五壇法を修して彗星の災いを祓う祈祷を行わせた。
蹴鞠の名手としても名を馳せた。
系譜
[編集]官職歴
[編集]- 建武4年10月8日(1337年11月1日) - 暦応元年10月19日(1338年12月1日) 右近衛少将
- 暦応元年10月19日(1338年12月1日) - 康永3年7月29日(1344年9月6日) 右近衛中将
- 暦応2年正月13日(1339年2月22日) - 暦応4年12月21日(1342年1月28日) 播磨権守
- 暦応4年12月21日(1342年1月28日) - 康永3年7月29日(1344年9月6日) 権中納言
- 康永3年7月29日(1344年9月6日) - 貞和3年9月16日(1347年10月20日) 権大納言
- 貞和2年10月16日(1346年11月29日) - 貞和4年4月28日(1348年5月26日) 右近衛大将
- 貞和3年9月16日(1347年10月20日) - 貞和5年9月13日(1349年10月25日) 内大臣
- 貞和4年4月28日(1348年5月26日) - 貞和4年8月12日(1348年9月5日) 左近衛大将
- 貞和4年10月27日(1348年11月18日) - 観応3年2月20日(1352年3月6日) 東宮傅(直仁親王)
- 貞和5年9月13日(1349年10月25日) - 延文5年9月30日(1360年11月9日) 右大臣
- 延文5年9月30日(1360年11月9日) - 貞治元年10月4日(1362年10月22日) 左大臣
- 康安元年11月19日(1361年12月16日) - 貞治2年6月16日(1363年7月27日) 関白
位階歴
[編集]- 建武4年8月25日(1337年9月20日) 正五位下
- 建武4年12月24日(1338年1月15日) 従四位下
- 建武5年正月5日(1338年1月26日) 正四位下
- 暦応元年10月19日(1338年12月1日) 従三位
- 康永2年正月5日(1343年1月31日) 正三位
- 貞和2年(1346年)? 従二位
- 貞和4年4月12日(1348年5月10日) 正二位
- 文和4年8月13日(1355年9月19日) 従一位
参考文献
[編集]- 『公卿補任』
- 『朝日日本歴史人物事典』
- 『愚管記』
公職 | ||
---|---|---|
先代 九条経教 |
関白(北朝) 1361 - 1363 |
次代 二条良基 |
先代 九条経教 |
左大臣(北朝) 1360 - 1362 |
次代 鷹司冬通 |
先代 九条経教 |
右大臣(北朝) 1349 - 1360 |
次代 鷹司冬通 |
先代 東宮職設置(直仁親王立太子) |
東宮傅(直仁親王) 1348 - 1352 |
次代 東宮職廃止(直仁親王廃太子のため) |
先代 徳大寺公清 |
内大臣(北朝) 1347 - 1349 |
次代 西園寺公重 |
軍職 | ||
先代 九条経教 |
左近衛大将(北朝) 1348 |
次代 西園寺公重 |
先代 徳大寺公清 |
右近衛大将(北朝) 1346 - 1348 |
次代 西園寺公重 |