豊浦村 (山形県)
とようらむら 豊浦村 | |
---|---|
廃止日 | 1955年7月29日 |
廃止理由 |
編入合併 鶴岡市、田川村、豊浦村、上郷村、加茂町 → 鶴岡市 |
現在の自治体 | 鶴岡市 |
廃止時点のデータ | |
国 |
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地方 | 東北地方 |
都道府県 | 山形県 |
郡 | 西田川郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
6,799人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 加茂町、温海町、上郷村 |
豊浦村役場 | |
所在地 | 山形県西田川郡豊浦村大字三瀬 |
座標 | 北緯38度42分03秒 東経139度40分17秒 / 北緯38.70078度 東経139.67133度座標: 北緯38度42分03秒 東経139度40分17秒 / 北緯38.70078度 東経139.67133度 |
ウィキプロジェクト |
豊浦村(とようらむら)は山形県西田川郡にあった村。現在の鶴岡市西部、羽越本線小波渡駅・三瀬駅周辺にあたる。西田川郡の漁獲量の約3分の1を占める漁村である。
地理
[編集]- 海洋:日本海
- 山:荒倉山、藤倉山、八森山
隣接していた自治体
[編集]西田川郡:山戸村(1892年から1954年まで)、加茂町、温海町、上郷村
歴史
[編集]村名の由来
[編集]豊かな自然や豊かな生活を願って命名された[1]。
1942年の三瀬大火
[編集]1942年(昭和17年)11月18日19時25分に、三瀬戌から出火した。当時風速25メートルの強風が吹いており、172戸に類焼した。消防士1人を含む4人が死亡した。被害総額は148万円。[2]
村役場の被害
[編集]村役場での被害総額は3万6880円となった[3]。また、戸籍簿、除籍簿、寄留簿、寄留手続令第11条の用紙が焼失した[4]。戸籍簿は1943年5月に近隣市町協力のもと再製した[5]が、除籍簿のうち再製されなかったものは、現在も鶴岡市役所では除籍謄本が交付できない。火災後は了願寺に仮事務所を設置、新庁舎が竣工したのは1943年12月10日であった[6]。
年表
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、三瀬村、小波渡村、堅苔沢村、由良村の区域をもって発足[7]。
- 1892年(明治25年)5月21日 - 三瀬で大規模火災、130戸焼失[8]。
- 1895年(明治28年) - 由良で大規模火災、56戸焼失[8]。
- 1942年(昭和17年)11月18日 - 三瀬で大規模火災。
- 1943年(昭和18年)12月10日 - 村役場の新庁舎が竣工。
- 1955年(昭和30年)
地域
[編集]小字の出典は『山形県地名録』263-264頁による。
大字三瀬
[編集]小字:三瀬・荒町・浦田・堅田・上降矢・下降矢・木谷地沢・越戸・猿田・獅子畑・菖蒲田・白山・小豆沢・殿田・鍋倉・冷田・二口・藤倉・水無・宮前・山田・横町
大字由良
[編集]小字:由良・由良沢・川原田・楮・古四王田・腰前・コタ田・猿田・スカ田・砂田・楯下・泊・東沢・町田・道田・村上
大字小波渡
[編集]小波渡と堅苔沢を合わせて「小堅」と呼ぶことがある[11]。
小字:小波渡・明ノ下・甘木台・大台・小滝・李台・浜田・宮林
大字堅苔沢
[編集]小字:堅苔沢(かたのりざわ)・板台・鳥越・平畑・深浦・淵ノ下・宮田・葭浦
人口
[編集]1942年時点[12]
- 三瀬:2198人
- 由良:1549人
- 小波渡:735人
- 堅苔沢:705人
行政
[編集]1947年村長選の決選投票
[編集]1947年4月5日、初の公選となる選挙が行われた。立候補は志田弥太郎、白幡多一郎、伊藤吉蔵の3人だった。3人とも得票数は800票台となり、法定得票を満たす者がいなかった。[13]現在の公職選挙法では、法定得票に満たない場合は一から再選挙を実施するが、当時は最多得票を得た2人による決選投票を行う制度であった[14]。志田と白幡の2人が決選投票となり、志田が第10代村長となった。
歴代村長
[編集]代 | 氏名 | 就任年月 | 退任年月 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 伊藤宜成 | 1889年(明治22年)6月 | 1913年(大正2年)6月 | 町村制施行 |
2 | 加藤利佐太 | 1913年(大正2年)6月 | 1921年(大正10年)1月 | |
3 | 石塚伊津記 | 1921年(大正10年)2月 | 1926年(大正15年)5月 | |
4 | 志田弥左衛門 | 1926年(大正15年)5月 | 1930年(昭和5年)5月 | |
5 | 加藤利佐太 | 1930年(昭和5年)6月 | 1936年(昭和11年)1月 | 再任 |
6 | 白幡龍助 | 1936年(昭和11年)1月 | 1940年(昭和15年)1月 | |
7 | 加藤利佐太 | 1940年(昭和15年)1月 | 1940年(昭和15年)11月 | 再任 |
8 | 石塚伊佐男 | 1940年(昭和15年)11月 | 1944年(昭和19年)5月 | |
9 | 小笠原伊太郎 | 1944年(昭和19年)5月 | 1946年(昭和21年)11月 | |
10 | 志田弥太郎 | 1947年(昭和22年)4月 | 1951年(昭和26年)4月 | 決選投票実施 |
11 | 白幡多一郎 | 1951年(昭和26年)4月 | 1955年(昭和30年)7月 | 豊浦村廃止 |
産業
[編集]主な産業は漁業である。1915年には郡全体の33%の漁獲量を占めていた[16]。沿岸では鱈・鯛・タコ・イカなどが獲れた[17]。地先で漁業を行う者だけでなく、出稼漁業として北海道の鱈漁・ニシン漁、青森県のイカ漁を行う者もいた[18]。1920年時点での漁業を行う戸数は以下の通りである[19]。
- 三瀬:317戸中 54戸
- 由良:238戸中 158戸
- 小波渡:151戸中 93戸
- 堅苔沢:116戸中 60戸
三瀬では農業を行う戸数が最も多く、1920年時点では317戸中94戸が農作を行っていた[19]。主な作物は、米、大根、白菜、馬鈴薯、茄子、甘藷など[20]。
1946年2月には三瀬に製塩工場が完成し、3月から製塩が始まったが、1949年3月に中止された[21]。
交通
[編集]鉄道路線
[編集]乗合馬車
[編集]明治から大正初期まで、当村と鶴岡町を結んでいた。到着や出発を知らせるラッパの「トテートテー」という音から「トテ馬車」と呼ばれていた。[22]
道路
[編集]現在は旧村域に日本海東北自動車道の三瀬インターチェンジが所在するが、当時は未開通。
施設
[編集]医療機関
[編集]- 伊藤医院(三瀬)
- 竹内医院(三瀬)
- 浦川医院(小波渡)
学校
[編集]名所
[編集]脚注
[編集]- ^ 『豊浦の歴史』455頁。
- ^ 『続 豊浦地域史資料』205-207頁。
- ^ 『続 豊浦地域史資料』212頁。
- ^ “「司法省告示第四十八號」『官報』1942年12月08日”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2025年2月15日閲覧。
- ^ 『豊浦の歴史』593頁。
- ^ 『豊浦の歴史』591-593頁。
- ^ 『豊浦の歴史』452,477頁。
- ^ a b 『豊浦の歴史』582頁。
- ^ 『豊浦の歴史』974頁。
- ^ a b 『豊浦の歴史』792頁。
- ^ 『豊浦の歴史』3頁。
- ^ 『続 豊浦地域史資料』205頁。
- ^ 『豊浦の歴史』701-702頁。
- ^ “昭和21年当時の地方公共団体の長の決選投票制度について”. 法務省. 2025年2月21日閲覧。
- ^ 『豊浦の歴史』459頁。
- ^ 『豊浦の歴史』968頁。
- ^ 『豊浦の歴史』666頁。
- ^ 『豊浦の歴史』548,625-626,665,753頁。
- ^ a b 『続 豊浦地域史資料』92頁。
- ^ 『続 豊浦地域史資料』176-179頁。
- ^ 『豊浦の歴史』972-973頁。
- ^ 『豊浦地域史資料』197頁。
- ^ 『豊浦の歴史』766-769頁。
- ^ 『豊浦の歴史』771-772頁。
- ^ 『豊浦の歴史』613頁。
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典 6 山形県
- 山形県郷土研究会 編『山形県地名録』郁文堂書店、1966年11月15日。NDLJP:3013702
- 小野泰 編『豊浦地域史資料』豊浦地域史資料刊行会、1992年9月30日。NDLJP:13243379
- 小野泰 編『続 豊浦地域史資料』小野弥太郎、1996年5月8日。NDLJP:13243378
- 豊浦の歴史刊行会 編『豊浦の歴史』2003年4月10日。