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許丙

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許 丙(きょ へい、1891年12月28日〈旧暦11月28日〉 - 1963年5月18日[1])は、日本統治時代の台湾実業家政治家貴族院朝鮮・台湾勅選議員[2]

生涯

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本籍地は台湾淡水(現・新北市淡水区[1]1911年台湾総督府国語学校を卒業した[2]。卒業後は林本源事務所の秘書を務めており、その時に当時の内務大臣原敬と知り合った。林家兄弟の財産分割に敏腕を振るったため、1916年10月からは林家の帳場頭を務めた。1919年に林熊徴が華南銀行を設立した時には協力をした[1]

1919年からは淡水街信用組合理事、淡水同風会副会長、台湾興業信託董事、新高醸造監事、高雄興業製糖董事、台北市協議会員、同市学務・土木・所得税調査の各委員などを務め、1927年からは台北州協議会員、台北州税調査委員、1929年からは林家傘下の日星商社の副社長、華南銀行監事を務めた。1930年7月からは台湾総督府評議会委員、新新興業董事、昭南鉱業監事、打狗土地建物監事を歴任し、中央政財界での人脈を築くために東京に豪邸を建てた。その後は満洲朝鮮での鉱山・土地開発にも成功し、台湾有数の富豪となった。1945年4月からは貴族院朝鮮・台湾勅選議員を務めた[1][2]

日本の敗戦直後、台湾の紳士らと共に草山(現・陽明山)の山中で安藤利吉諫山春樹らと台湾独立の可能性を討議する会議に参加したが、1946年1月、この会議の参加者として逮捕され、同年7月に台湾の戦犯軍事法庭により国土窃取の容疑で1年10か月の有期刑を言い渡された。出所後は林家傘下の児童養護施設の董事と林熊徵学田奨学委員会奨学組の主任を務め、1949年台湾省政府主席の呉国楨により省政府顧問に任命されたが、その後の中華民国政府による土地改革には反対の姿勢を取り、租税を払うことも拒否した。中華民国時期には唐栄鉄工廠顧問、台湾青果公司顧問、許氏宗親会長、台湾省仏教道友会長、中日文化経済協会顧問を歴任した。1963年5月18日に脳塞栓症により台湾大学病院で死去した[1]

親族

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作曲家許博允中国語版は孫[3]。娘婿の甥に顔恵民一青妙一青窈の父)

脚注

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  1. ^ a b c d e 台灣記憶 > 臺灣歷史人物小傳(明清暨日治時期) > 許丙” (中国語). 国家図書館. 2022年6月21日閲覧。
  2. ^ a b c 衆議院, 参議院: “議会制度七十年史. 第1”. 国立国会図書館デジタルコレクション. p. 222 (昭和35-12). 2022年6月21日閲覧。
  3. ^ 藝文大老新象創辦人許博允病逝 享壽80歲” (中国語). 自由時報 (2023年9月4日). 2023年9月4日閲覧。