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藤堂高克

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藤堂 高克(とうどう たかかつ、文化13年10月8日1816年11月26日) - 明治20年(1887年5月7日)は、江戸時代後期(幕末)の伊勢津藩家老。字は士儀、法号は常山。父は藤堂高芬。正室は藤堂長教の娘。名は「たかよし」とも。

生涯

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伊勢津藩の支藩である久居藩の支流の一族である。天保11年(1840年)に家督を継ぎ、本家の津藩主藤堂高猷の番頭として仕えた。

慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では津藩軍3000人の総督を務め、この功績により帰国後に津藩の家老に昇格する。慶応3年(1867年)から藩主・高猷が病がちで藩政を執ることが次第に困難になると、世子の藤堂高潔を助けて新政府との交渉や藩政の執行を務めた。

明治20年(1887年)に死去。享年72。

観海流について

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「観海如陸 心水一致」

  • 嘉永5年(1852年)、武蔵忍藩の浪人・宮信徳(発太郎)の泳法を見た高克は、“海を観る事、陸の如し”と感心し、この泳法を観海流と名づけ、当時、伊勢湾の防衛が必要だった高克は有益な泳法として、藩校・有造館の武道教科に採用した。後に藩士・山田省助を開祖にして代々受け継がれ、現在でも観海流寒中水泳大会は毎年1月初めに行われている。