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米原章三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
米原章三
よねはら しょうぞう
米原章三
生年月日 1883年11月16日
出生地 鳥取県鳥取市(旧・河原町
没年月日 (1967-10-19) 1967年10月19日(83歳没)
出身校 東京農業大学
早稲田大学
前職 鳥取県議会議員
鳥取県智頭町議会議員
日本海新聞社代表取締役社長
日本海テレビジョン放送取締役会長
日ノ丸総本社代表取締役社長
鳥取銀行取締役
所属政党研究会→)
無所属
称号 正四位
勲二等瑞宝章
鳥取県鳥取市名誉市民
親族 次男・米原昶

選挙区 多額納税者議員
当選回数 2回
在任期間 1932年9月29日[1] - 1946年4月23日[2]
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米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本実業家政治家。鳥取県多額納税者[3]鳥取県会議員貴族院議員鳥取市名誉市民[4]。旧姓藤縄。

来歴・人物

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生い立ち

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鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年県会議員となったが[5]1890年に病没、その後家運は衰退した[5]高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った[6]。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校代用教員として短期間勤務した[6]1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部に入学[6]。この頃米原は植村正久に心酔し、九段教会に通ってクリスチャンとなり、タバコを絶ちピューリタンとして真剣な信仰生活に入った[6]。 後にキリスト教から離れるが、彼の生涯には深い影響を与えるものになった[7]

智頭宿の米原家住宅(国登録有形文化財)

智頭町の山林地主であった米原家の長女と結婚[7]1906年7月、早稲田大学専門部政治経済科を卒業すると直ちに帰郷して、家業の林業に従事した[6]

政治・経済界への進出

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山林事業の近代化にのり出し、八頭木材会社の経営に参加した[7]。ついで銀行業にも目をむけ、大正鳥取銀行の創設に参画し、役員として経営にあたった[7]1911年智頭村会議員になってから、1923年鳥取県会議員となり、1928年には県会議長となった[7]。さらに1932年貴族院議員にもなった[8]1930年、県東部のバス・タクシー八社を合併して、日ノ丸自動車株式会社を発足させた[8]。その後1944年までに二八社を統合して、全県バス網を一本化した[8]1938年丸由百貨店(後の鳥取大丸)を設立して、その社長になった[8]。一族の由谷正太郎の発議した事業だったが、当時は町ともいえなかった鳥取駅前に位置を定めたのは、米原の意見によることだった[8]1939年鳥取新報、因伯時報、山陰日日新聞の県内三紙を合同、日本海新聞を創立して初代社長となった[9]

戦後は公職追放となり[10]、追放解除後には1958年日本海テレビを設立。

晩年

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1967年10月19日、鳥取市内の病院で死去。 1969年9月、鳥取市議会で6人目の名誉市民に選ばれた。

家族・親族

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米原家

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鳥取県鳥取市

脚注

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  1. ^ 『官報』第1727号、昭和7年9月30日。
  2. ^ 『官報』第5783号、昭和21年4月27日。
  3. ^ a b c d e f g 『人事興信録. 第8版』(昭和3年)
  4. ^ 鳥取市の名誉市民”. 鳥取市. 2022年8月12日閲覧。
  5. ^ a b 『鳥取県百傑伝』164頁。
  6. ^ a b c d e 『鳥取県百傑伝』165頁。
  7. ^ a b c d e 『鳥取県郷土が誇る人物誌』285頁。
  8. ^ a b c d e 『鳥取県郷土が誇る人物誌』286頁。
  9. ^ 『鳥取県郷土が誇る人物誌』168頁。
  10. ^ 『朝日新聞』1947年12月23日一面。
  11. ^ a b c *日本共産党 鳥取県委員会 - 智頭町で米原万里展 - 赤旗・民報 - ニュース

参考文献

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  • 『鳥取県百傑伝:近代百年』山陰評論社、1970年、164-169頁。
  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、427-430頁。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 鳥取県教育委員会編『鳥取県郷土が誇る人物誌』鳥取県教育委員会、1990年。

関連項目

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外部リンク

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