稲田町 (神奈川県)
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いなだまち 稲田町 | |
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廃止日 | 1938年10月1日 |
廃止理由 |
編入合併 稲田町、向丘村、宮前村、生田村 → 川崎市 |
現在の自治体 | 川崎市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 神奈川県 |
郡 | 橘樹郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
7,597人 (国勢調査、1935年) |
隣接自治体 |
神奈川県 川崎市、橘樹郡向丘村、生田村 東京府 世田谷区、北多摩郡調布町、狛江村 |
稲田町役場 | |
所在地 | 神奈川県橘樹郡稲田町大字登戸 |
座標 | 北緯35度37分11秒 東経139度33分44秒 / 北緯35.61961度 東経139.56211度座標: 北緯35度37分11秒 東経139度33分44秒 / 北緯35.61961度 東経139.56211度 |
ウィキプロジェクト |
稲田町(いなだまち)は、1932年(昭和7年)6月1日から1938年(昭和13年)10月1日まで存在した神奈川県橘樹郡の町。
本項では前身の稲田村についても述べる。
概要
[編集]神奈川県橘樹郡北部の町。現在の神奈川県川崎市多摩区北部にあたる。
地理
[編集]歴史
[編集]町名の由来
[編集]稲毛米を産出する肥沃な水田にちなむ。稲毛米の名は橘樹郡の別である稲毛郡、あるいは同郡北部の呼称である稲毛領に由来する[1]。
沿革
[編集]- 南北朝時代 - 宿河原の地名が見られる。
- 戦国時代 - 登戸の地名が見られる。
- 江戸時代 - 以下の4村が成立。
- 1868年(明治元年)
- 旧暦6月17日 - 神奈川府の管轄となる。
- 旧暦9月21日 - 神奈川府が神奈川県に改称。
- 1874年(明治7年) - 大区小区制の施行により、登戸村、宿河原村、堰村が第5大区第8小区に、菅村が第5大区第9小区になる。
- 1875年(明治8年)10月29日 - 中野島村が多摩郡から橘樹郡に編入。
- 1878年(明治11年) - 大区小区制廃止、郡区町村編制法施行。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、登戸村、菅村、中野島村、宿河原村、堰村が合併して稲田村が成立。
- 1912年(明治45年) - 多摩川を挟んで両岸に蛇行していた東京府北多摩郡との境が多摩川上に設定され、北多摩郡調布町大字上布田、下布田、狛江村大字和泉の各一部を編入。大字宿河原の一部を狛江村に移管。
- 1932年(昭和7年)6月1日 - 稲田村が町制施行して稲田町となる。
- 1938年(昭和13年)10月1日 - 川崎市に編入。同日稲田町廃止。
- 1972年(昭和47年)4月1日 - 川崎市が政令指定都市に指定され、旧町域が多摩区となる。
交通
[編集]鉄道路線
[編集]京王相模原線の京王稲田堤駅は、当時は未開業。なお、向ヶ丘遊園(むこうがおかゆうえん)は旧向丘村(むかおかむら)大字長尾(現多摩区長尾)に所在した。
道路
[編集]現在の町名
[編集]大字がそのまま引き継がれ、2012年現在もすべて旧村名が現存する。合併後に登戸の一部より登戸新町が、菅の一部より菅稲田堤、菅野戸呂、菅馬場、菅北浦、菅仙谷、菅城下が起立。
その他
[編集]川崎市への編入後も町役場のあった登戸地区をはじめとした旧町域では「稲田」の名称が公共施設などで使用されていたが、1955年に小田急電鉄が稲田多摩川駅を登戸多摩川駅(1958年に南武線と同名の登戸駅へ再改称)、稲田登戸駅を向ヶ丘遊園駅に改称したのに続き、1972年の政令指定都市化に伴う多摩区設置で図書館や警察署などが「稲田」から「多摩」に変更された。2006年には稲田登戸病院も閉院し、現在の登戸地区で「稲田」の名称を関するのは不動産業の「稲田農業不動産」[1]などの少数例に留まる。これに対し、稲田堤駅のある菅地区では1971年に開業した京王相模原線の新駅も「京王稲田堤駅」となり、現在でも「稲田堤」という形で「稲田」の名前が多く残されている。
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 神奈川県橘樹郡稲田村 (14B0040002) | 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ