松平定房
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長9年8月12日(1604年9月5日) |
死没 | 延宝4年6月28日(1676年8月7日) |
改名 | 定房、安心軒(法号) |
戒名 | 実相院殿憲誉安心大居士 |
墓所 | 愛媛県今治市国分山の松平家墓地 |
官位 | 従五位下・美作守、従四位下侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川秀忠→家光→家綱 |
藩 | 伊予今治藩主 |
氏族 | 久松松平家 |
父母 | 父:松平定勝、母:たつ(奥平信昌養女) |
兄弟 | 松尾君、定吉、定行、定綱、阿姫、定実、紀為君、定房、菊君、定政、鶴君、玉君 |
妻 | 内藤政長の娘・長栄院 |
子 | 定経、定時 |
松平 定房(まつだいら さだふさ)は、江戸時代前期の大名。伊予国今治藩の初代藩主。定房系久松松平家初代。官位は従四位下・侍従。
生涯
[編集]遠江国掛川藩主・松平定勝の五男として誕生した。母は奥平信昌の養女(奥平貞友の次女)・たつ。慶長16年(1611年)、伯父の徳川家康に初めて拝謁した。
元和7年(1621年)、従五位下・美作守に叙任された。同年、毛利高政に砲術を学び、秘伝書を授けられている[1]。
寛永2年(1625年)、伊勢国長島に知行地7000石を賜わった。同12年(1635年)、伊予今治城3万石に加増転封された。正保4年(1647年)、南蛮船の長崎入港に際し、兄で長崎探題の松平定行に従い長崎へ出向した。寛文5年(1665年)、江戸城代役(大留守居)を命ぜられ、武蔵国・下総国・常陸国の内に1万石を加増された。さらに従四位下に昇進された。寛文9年(1669年)、鷹司房子の将軍家入内に際し、定房が4代将軍・徳川家綱の名代として参内し、侍従に昇進された。
延宝2年(1674年)、江戸城代役を辞職し隠居し、薙髪し安心軒と号した。延宝4年(1676年)6月28日、領国の今治で卒去した。享年73。松源院で葬儀が行われ、実相院殿憲誉安心大居士と号を贈られた。今治国分山へ葬られた。
正室の内藤氏は元禄2年(1689年)、江戸で卒去した。長栄院殿相誉安貞清憲大法尼と号を贈られ、江戸深川の霊巌寺に葬られた。
寛文5年(1665年)、江戸城留守居役を命ぜられた際、定房はもう高齢の域であったが、健康に問題なしとされ、任命されている。
系譜
[編集]脚注
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