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木原光知子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木原 光知子
木原 光知子, 1964
生年月日 (1948-04-05) 1948年4月5日
生誕地 兵庫県明石市
没年月日 (2007-10-18) 2007年10月18日(59歳没)
死没地 神奈川県平塚市
身長 167cm
体重 59kg
獲得メダル
日本の旗 日本
アジア競技大会
1966年アジア競技大会 100m自由形
1966年アジア競技大会 200m自由形
1966年アジア競技大会 4×100m自由形
1966年アジア競技大会 4×100mメドレー
ユニバーシアード
1967年夏季ユニバーシアード 100m自由形
1967年夏季ユニバーシアード 400m自由形
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木原 光知子(きはら みちこ、1948年昭和23年〉4月5日 - 2007年平成19年〉10月18日[1])は、日本の元水泳選手で、タレント実業家・スイミングアドバイザー、「ミミスイミングクラブ」創立者。競技の現役時代、タレント時代前期、実業家としての名前は本名の「木原美知子」となっている。実兄はJU岡山理事長・JU中四国会長を歴任し現在はミミスイミングクラブを経営するK&Mインターナショナル代表取締役の木原信良。愛称は「ミミ」。身長168cm(1975年7月)[2]

来歴・生涯

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兵庫県明石市で生まれ、岡山県岡山市で育つ。岡山市立南方小学校岡山市立旭中学校[1]山陽女子高等学校[1]日本大学文理学部卒業。

小学6年生の時「水泳選手になってオリンピックに出たい」という作文を書き[3]、中学時代から田中聡子のあとの日本水泳界を背負う最大のホープと騒がれる[4]。100m自由形が主であったが、400m自由形や背泳ぎバタフライ個人メドレーなどでもトップクラスのオールラウンダーであった[4]。進学した山陽女子高校には水泳部がなく、また岡山には冬の間泳げる温水プールはなく、和歌山県白浜広島県呉市海上自衛隊の室内プールに通う[5]

高校在学時に1964年東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となった[4]。競技を引退後は東レ水着モデルを務めるなどタレントに転向[1]。その後、東レ関連会社の役員や自らの水着ブランドや水泳教室を運営するなどビジネス界に進出。40歳を超えてからマスターズ競技に復活し日本記録を樹立している。また各種スポーツ団体や岡山県関連の理事・委員に加え、2005年より日本水泳連盟初の女性理事を務めるなど多方面で活躍していた[1]

2007年10月13日、神奈川県平塚市内のプールで親子水泳教室の指導中に倒れ、意識不明のまま、平塚市民病院に搬送された[1]。一時は意識を回復したものの、同18日午前1時25分、クモ膜下出血のため死去[1][6]。59歳没。戒名は寶珠院秀泳智照大姉。葬儀は築地本願寺にて社葬で執り行われ、喪主は兄の木原信良が務めた。死去した10月18日に遡って、日本政府より旭日小綬章が贈られた。

2009年10月、岡山県総合グラウンド内に顕彰碑が建立された。

主な競技歴

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  • 1962年
  • 1963年
    • 第3回全国中学校選抜水泳競技大会 100m自由形、100m背泳ぎ、200m個人メドレーの3種目を制覇
  • 1964年
    • 7月19日 全日本水泳選手権 100m自由形 優勝(1分3秒8 日本新記録)
    • 10月 東京オリンピックに出場。400mメドレーリレー 4位入賞、100m背泳ぎ 落選、400mリレー 落選[8]
  • 1965年
    • 9月 第20回岐阜国体 100m自由形(日本新記録樹立)
  • 1966年
    • 7月 全国高校水泳競技大会(青森) 100m・200m自由形 優勝
    • 8月 全日本水泳選手権 100m・200m自由形 優勝
    • 12月 第5回アジア大会バンコク) 100m・200m自由形 優勝、400mリレー、メドレーリレー 優勝
  • 1967年
    • メキシコプレオリンピック 100m自由形 金メダル、200m自由形 銀メダル
    • 7月 全国大学女子大会 100m・400m自由形 優勝
    • 8月 全日本水泳選手権 200m・400m自由形 優勝

マスターズ

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主な出演歴

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モデル

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  • 1967年1月 日大水泳部を退部。東レ専属の水着モデルとなる(東レキャンペーンガール参照)。
  • 1984年 大磯ロングビーチキャンペーンキャラクター
    • 同年はファミリー層へのアピールを重要視したためか、木原の前後数年続く外国人女性モデル(1979年 - 1981年のアグネス・ラム、1988年のヒロコ・グレースなど…日本人とのマッシュアップを含む)ではなく、当時36歳ながら木原が起用される。メインビジュアルは、波のプールで木原(同広告のイメージカラーである蛍光ピンクのワンピース水着を着用)が複数の女子児童とビーチボールで遊ぶという設定だった。

映画

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テレビ

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<ドラマ>
<バラエティ・クイズ>
<その他>
  • ミミの体当たりレポート(提供・防衛庁、1973年10月 - 1974年)
フジテレビ系列で全国ネットの予定が、自衛隊宣伝番組だったため各地の反対運動により、青森テレビのみで放送された。

ラジオ

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コマーシャル

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シングル

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  • センチメンタル渚/最後のマッチ(1977年発売)
  • みじかい爪/画家とモデル(1982年10月発売)

その他の略歴

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その他

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  • 中学時代は学校にプールがなく、軟式テニス部に所属[3]
  • 低音でハスキーな独特の声が特徴であった。
  • ニックネームは「ミミ」(母親が子供の頃に付けたもの)。
  • タレントに転向したのは、佐良直美と知り合ったことがきっかけの一つだった[9]
  • 1994年に友人関係だった美川憲一との結婚の噂が週刊誌を中心に飛び交ったが、全くの誤報であった。
  • 美川のほか、中尾ミエとも親交が深かった(『徹子の部屋』での木原追悼特集時には中尾が親友として出演していた)。
  • 美川、中尾、橋田壽賀子石井好子などとも交流があり、芸能関係者へ水泳を奨めて自ら指導を行っていた。石井とは年齢の差を超えて公私ともに親しく、木原が倒れた日は石井と会食の予定が入っており、最期も親族とともに看取り、葬儀の際には弔辞を読んだ。
  • バドミントン選手の湯木博恵は山陽女子高の同期である。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g “元東京五輪水泳選手の木原光知子さん死去 タレントでも活躍”. MSN産経ニュース. (2007年10月18日). オリジナルの2007年10月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071024100137/http://sankei.jp.msn.com/sports/other/071022/oth0710220949003-n1.htm 2022年9月23日閲覧。 
  2. ^ 「テーマ大特集 身長物語 背の高さのお話 ノッポさんのユカイな考察 スタアのノッポさん」『スタア』1975年7月号、平凡出版、176–179頁。 
  3. ^ a b Wendy-net(2007年3月)
  4. ^ a b c #葉室8頁
  5. ^ #葉室9-10頁
  6. ^ 元祖競泳アイドル、木原光知子さん急死…59歳くも膜下出血 (SANSPO.COM)
  7. ^ gooブログ・木原光知子さん(素直さ、真剣さ、敏感さ・2007年10月19日)
  8. ^ SANSPO.com 2004年アテネ五輪特集・五輪の記憶(8)
  9. ^ 週刊テレビ番組 1979年1月5日号 p.100

参考文献

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外部リンク

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