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作間喬宜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
作間 喬宜
生誕 1894年11月10日
日本の旗 日本山口県
死没 (1966-12-27) 1966年12月27日(72歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1916年 - 1946年
最終階級 陸軍少将
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作間 喬宜(さくま たかよし、1894年明治27年)11月10日[1][2] - 1966年昭和41年)12月27日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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山口県出身[1][2][3]熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる[1][4]。1922年(大正11年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校独逸語委託専科を修了した[5]

1922年4月、熊本地方幼年学校付となり、那覇商業学校(現沖縄県立那覇商業高等学校配属将校歩兵第47連隊中隊長、陸士付勤務を務め、1933年(昭和8年)8月、歩兵少佐に昇進[1]。同年12月、陸軍兵器本廠付(軍事課)となり、1938年(昭和13年)3月、歩兵中佐に進み、北支那方面軍参謀部付に発令され日中戦争に出征[1][2]。1940年(昭和15年)3月、南支那方面軍参謀部付に転じ、1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に昇進した[1][3]

1941年7月、第23軍参謀部付となり、同年10月、歩兵第214連隊長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]ビルマの戦いインパール作戦イラワジ会戦などに参戦した[2]。1945年(昭和20年)6月、陸軍少将に進級し独立混成第24旅団長に就任[1][2][3]。タンビザヤで終戦を迎えた[2]。1946年(昭和21年)7月に復員した[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸海軍総合事典』第2版、75頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』337-338頁。
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』398頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』388、398頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版。75、617頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。