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伊達宗賀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達宗賀
時代 江戸時代
生誕 天明5年8月6日1852年6月16日
死没 嘉永5年4月29日1852年6月16日
改名 兵力(幼名)→実孝(初名)→宗賀
別名 藤五郎、安房(通称)
戒名 龍徳院殿慈山泰雲大居士
墓所 大雄寺宮城県亘理郡亘理町
主君 伊達周宗斉宗斉義
仙台藩
氏族 伊達氏
父母 父:伊達村氏、古内広光の娘[1]
正室:三沢村保の娘
子:宗恒義隆伊達邦賢
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伊達 宗賀(だて むねよし)は、江戸時代仙台藩一門第二席・亘理伊達家第11代当主。

生涯

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天明5年(1785年)、亘理伊達家第10代当主・伊達村氏の子として生まれる。幼名は兵力。寛政9年(1797年)に元服し、実孝と名乗った。

享和2年(1802年)に三沢村保の娘と結婚。享和3年(1803年)11月、父村氏の死去により家督を相続し亘理邑主となる。

文化9年(1812年)2月、家督相続して藩主となった斉宗と共に江戸城に登城し、将軍徳川家斉に拝謁する。

文化9年(1812年)3月、藩政を補佐した功績により500石の加増を受け、知行2万4300石となり、藩主斉宗の偏諱を受けて、宗賀と名乗る。[2]

文政5年(1822年)、病のため嫡男兵力の番代を申し出て許された。文政7年(1824年)、隠居して家督を嫡男宗恒に譲り、沼頭下屋敷で余生を過ごした。[2]

嘉永5年(1852年)4月29日死去。享年68。

人物

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宗賀の治世に亘理に末家焼の窯が築かれ、陶器の生産が盛んになった。[2]

出典

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  1. ^ 伊達家系図
  2. ^ a b c 亘理町史

参考文献

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  • 『仙台人名大辞書』
  • 『亘理町史』
  • 伊達邦成『伊達家系図』