上郎幸八
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上郎 幸八[1](こうろう こうはち、1836年10月18日(天保7年9月9日)[2] - 1916年(大正5年)12月29日[3])は、日本の資産家[2][4][5]、実業家[注 1]。族籍は神奈川県平民[2][4]。
経歴
[編集]越前国南条郡白崎村(のち福井県南条郡王子保村白崎、現越前市白崎町)の農家に生まれた[6]。新右衛門の二男[2][4][注 2]。はじめ幸吉といい、後に幸八と改めた[7]。
万延元年8月、東京日本橋木綿問屋小津清左衛門の店員となる[7]。文久3年、横浜の西洋洗濯屋中山太郎左衛門の店員となる[7]。仕事が終われば夜間は車の後押し、人力車夫等となり幾年か苦しい労働をつづけ、ついに両替店を開く[7]。
国立七十四銀行取締役支配人となり、1880年には横浜正金銀行設立発起人、上信銀行顧問となる[7]。家督を長男・新二に譲り、大磯に別荘を建て隠居した[6][注 3]。
1916年12月29日に死去[7]。墓所は横浜市の増徳院[7]。
人物
[編集]金融業や不動産開発で財を成した[9]。横浜における事業の成功者であり、自由党を支援した同県人・吉田健三は資金の融通は幸八に仰いだ[10]。幸八は横浜市内屈指の資産家だった[2]。
祖先崇拝の念が厚い[7]。仏教に帰依し、多くの本山に多額の祠堂金を寄付した[7]。
郷土を思う念が強く、郷里の小学児童に郵便貯金通帳を配布して貯蓄心の培養につとめた[7]。北笹生溜池の拡張改修、道路の新設改修等に多額の寄付金を寄せた[7]。斗布神社に種種の施設又は物品を寄進するなど郷土の向上発展に意を用いたために、1913年に有志がはかって斗布神社境内に銅像を建設した[7]。
住所は神奈川県横浜市境町[1]、同市南太田町[2][5]、中郡大磯町[8]。
家族・親族
[編集]- 上郎家
- 妻・か代[4]あるいは嘉代[11](1854年 - ?、東京士族、佐藤善の姉[4]、佐藤一斎の孫[8]、佐藤晃の長女[11]、幸八の妻と吉田健三の妻は姉妹同士)
- 長男・新二[1](1888年 - 1933年、資産家[4]、地主、神奈川県会議員[12]、住所は神奈川県高座郡藤沢町[11])
- 長女・やす(1874年 - ?、貴族院議員上郎清助の妻)[11][12]
- 親戚
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『日本紳士録 第16版』横浜の部し之部80頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月9日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第2版』し1317頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月15日閲覧。
- ^ a b 『王子保村誌』690 - 694頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第3版』し70-71頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月14日閲覧。
- ^ a b c 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月14日閲覧。
- ^ a b 『横浜成功名誉鑑 開港五十年記念』644頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『武生市史 資料編 第3(人物・系譜・金石文)』186 - 187頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月23日閲覧。
- ^ a b c d 「大磯今昔」、上郎幸八、大磯町観光協会Facebook。
- ^ 「上郎幸八(こうろこうはち)」伝。
- ^ 三井物産の企業者史的研究-山本条太郎の社会化の過程-瀬岡誠 小倉榮一郎教授退官記念論文集(第255・256号)1989、261頁。
- ^ a b c d 『大衆人事録 第3版』コ之部73頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月14日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第11版 上』コ157頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月14日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第2版』人事興信所、1903-1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。
- 森田忠吉編『横浜成功名誉鑑 開港五十年記念』横浜商況新報社、1910年。
- 『日本紳士録 第16版』交詢社、1911年。
- 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
- 王子保村誌刊行会編『王子保村誌』王子保村誌刊行会、1962年。
- 武生市史編纂委員会編『武生市史 資料編 第3(人物・系譜・金石文)』武生市、1966年。