三笠書房
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒102-0072 東京都千代田区飯田橋三丁目3番1号 |
設立 | 1933年(昭和8年)11月 |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 4010001117210 |
事業内容 | 書籍出版業、著作物関連事業など |
代表者 | 代表取締役社長 押鐘太陽 |
資本金 | 3,000万円 |
売上高 | 約54億円(連結) |
従業員数 | 56名 |
主要子会社 | フランス書院 100% |
関係する人物 | 竹内道之助(創業者)、押鐘冨士雄(中興) |
外部リンク | https://www.mikasashobo.co.jp/ |
特記事項:主要取引銀行はみずほ銀行 |
株式会社三笠書房(みかさしょぼう、英: MIKASA SHOBO CO., LTD.)は、東京都千代田区に本社を置く日本の出版社。
沿革
[編集]翻訳出版社として
[編集]1933年、翻訳者の竹内道之助により、海外文学の翻訳出版社として創業。
処女出版は『ドストイエフスキイ研究』(アンドレ・ジッド他著)。 『ドストイェフスキー全集』 『ヘルマン・ヘッセ全集』 『ヘミングウェイ全集』『クローニン全集』 『風と共に去りぬ』 『赤毛のアン』[1] などを発行。特に『風と共に去りぬ』(大久保康雄訳・初刊は1938年)は、1949年、1950年の年間ベストセラー第3位にランクされるなど、300万部を超える大ベストセラーとなった。なお、映画の日本公開は1952年で、同年もベストセラー第7位に入っている。
『風と共に去りぬ』で得た莫大な利益によって、三笠文庫(1951年創刊)、『三笠版現代世界文学全集』(全27巻、別巻4。1953年-1957年)などを刊行している。
和書では創業の1933年に内田百閒の随筆『百鬼園随筆』を出版しており、その後も『阿房列車』など、たびたび百閒作品を刊行している。また、1938年に「マルスの歌」を掲載した『文学界』が発売禁止になり、大手ジャーナリズムから半ば締め出された石川淳の作品を、自社刊行の『文庫』などの雑誌に発表した。1939年の石川の長編小説「白描」、1941年の短編「張柏端」は三笠書房の雑誌が初出である。1941年には書き下ろし評論『森鴎外』も刊行した。
また、唯物論研究会と関係が深く、研究会が企画した『唯物論全書』のシリーズを弾圧後も引き受け、『三笠全書』として刊行していた。
自己啓発へ転換
[編集]放漫経営により1968年に2度目の[要説明]倒産危機に陥った折、会社再建への貢献を創業者の竹内に認められ、当時、一般社員だった現会長の押鐘冨士雄が営業部長に抜擢された。1973年には編集部長へ就任した[2]押鐘は、映画『未知との遭遇』の公開に合わせて原作本を出版し40万部を売り上げるなど、人気ドラマの小説化で債務を完済した手腕が評価され、1980年、代表取締役社長に就任した[2]。また、1975年には子会社扱いで「フランス書院」ブランドを設立し、官能小説の分野にも進出している。
この頃から主力だった翻訳文芸路線を放棄し、自己啓発本の発行を開始する[2]。
1981年には竹内が死去。1985年に押鐘が竹内の長男より株式を買い取ったことから、創業者一族である竹内家は同社から離れた。社屋も新宿区戸山から移転し、現体制となる。
これにより、本格的に自己啓発、生き方、ビジネス、経済、雑学、ハウツー、女性向け書籍などの路線へ転換した。そのため、同じ出版社でありながら、年代によってイメージが異なる出版社といえる。自己啓発の著名な書き手には渡部昇一や轡田隆史がいる。渡部はジョセフ・マーフィーについての出版には大島淳一のペンネームを使っている。
現在は「知的生きかた文庫」(1984年創刊)「王様文庫」(2000年創刊)を中心に、教養本や実用書の発行を多数手がけている。知的生きかた文庫は文庫化の版権に関連して、学校法人産業能率大学出版部と密接な関係にある。
2008年、押鐘冨士雄の息子、押鐘太陽が社長に就任した。
主な刊行物
[編集]全集
[編集]- 『三笠版現代世界文学全集』
- 『ドストイェフスキー全集』
- 『ヘルマン・ヘッセ全集』
- 『ヘミングウェイ全集』
文庫
[編集]所在地
[編集]東京都千代田区飯田橋三丁目3番1号
関連会社
[編集]脚注
[編集]- ^ NHKの連続テレビ小説「花子とアン」では、最初に出版した会社として「小鳩書房」が出てくる。編集者の小泉(白石隼也)が推していたにもかかわらず社長(茂木健一郎)が読まずに断っていたというエピソードになっている。
- ^ a b c 塩澤実信『出版社を読む』 新風舎 1998年 ISBN 4797408421 pp.110-114.