コンテンツにスキップ

イリス (企業)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
株式会社イリス
K.K. IRISU
(C. ILLIES & CO., LTD.)
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
141-0021
東京都品川区上大崎3-12-18 イリスビル
設立 1859年
業種 卸売業
法人番号 5010701032690 ウィキデータを編集
事業内容 ドイツ製装置輸入販売等
代表者 代表取締役社長 ハルトムート・パネン(Haltmut Pannen)
資本金 3000万円
主要株主 C. Illies & Co. KG (ドイツ)
外部リンク https://www.irisu.jp/
テンプレートを表示

イリス(C. ILLIES & Co. Handelsgesellschaft mbH)は、ドイツハンブルクに本社を置く、ドイツからの輸入機械を取り扱う専門商社。 社歴は安政5年(1859年)7月に横浜と長崎で開店したクニフラー商会にさかのぼる。明治13年(1880年)5月同社共同経営者だったカール・イリスが経営権を引き継ぎイリス商会と名を改め今日の株式会社イリス(K.K. IRISU)につながる。

沿革

[編集]

バタヴィアで貿易に従事していたデュッセルドルフ出身のルイス・クニフラーとギルデマイスターは、日本での業務展開のため1859年1月長崎出島に到着した。その後、オランダ商館として営業準備を始め、同年7月の開国に合わせ横浜長崎クニフラー商会の営業を開始した。 クニフラー商会は横浜での外国商社第一号と言われている[1]

クニフラー商会は開港間もない横浜では思ったような商売が出来ず、1860年春頃には一旦閉店することになったが、その頃福沢諭吉クニフラー商会を訪れ、英語の重要性を学ぶきっかけとなる蘭英・英蘭辞書を購入している[2]。 一方、出島に居住していたギルデマイスターは、医者の松本良順やその門下の医学生達と行き来があった。この日本人医学生の中に、日本最初の独和辞典を発刊した司馬凌海がおり、ギルデマイスターからドイツ語を学んだ可能性があると言われている[3]

1862年1月ギルデマイスターが横浜に移り同地で営業を再開した[4]のを始め、明治維新までに開港された全ての居留地(箱館、神戸、大阪、築地、新潟)に支店あるいは代理店を置き、日本の主要都市圏での営業を展開した。 当時のクニフラー商会は、銃器・船舶、織物などを輸入し、樟脳、絹、昆布、茶などを輸出していた。特に銃器は長崎で確認できるだけでも約9千挺に上っている[5]

クニフラーは、日本での営業基盤確立を実現した1865年秋にデュッセルドルフに戻り、翌年9月欧州における日本向け調達拠点となるデュッセルドルフ支店を開店した。その後日本への商圏拡大を狙う多数の有力企業との間で代理店契約を結ぶようになる。

1866年5月クニフラーと入れ違いでカール・イリスが横浜でクニフラー商会の社員となり、1868年に長崎支店長となる。

1866年春に土佐藩へ銃・船舶などを納める取引で対価となる土佐藩品の樟脳の市場価格暴騰により、土佐藩の契約不履行が生じた。土佐藩では岩崎弥太郎が窓口となったが、この問題の決着は明治維新後までつくことがなかった[6]司馬遼太郎は「竜馬がゆく」でこの時の土佐藩後藤象二郎とクニフラー商会(文中ではキネプル)のもめごとを取り上げている。 その後、岩崎弥太郎の三菱商会がもととなって作られた日本郵船が欧州航路ハンブルク線を開拓し、クニフラー商会およびその後のイリス商会が行った取引物資の運搬に貢献した。

明治新政府発足までの間、クニフラーとギルデマイスターは長崎と横浜でプロシャの副領事に任命されており、商会の営業に役立つ情報を手に入れることが出来た。 他方、箱館の代理店主ガルトネルも副領事に任命されたが、プロシャ公使の圧力もあり、借地問題で後に明治新政府の外交問題第一号となる「ガルトネル事件」に深く関与する。

明治初年陸軍にツンナール銃5,500挺、ツンナール騎銃200挺を納入したことを皮切りに、第二次世界大戦まで続く軍との密接な関係が構築された[7]

武器取引以外にも活路を見出す努力が見られ、1871年4月大北電信会社が、上海-長崎、長崎-浦塩(ウラジオストック)間の海底ケーブル敷設完了し、欧州と極東の電信網が繋がり日本における国際通信の第一歩となったが、この時クニフラー商会はジーメンス社より海底電線(長崎-上海)敷設用機材を購入して大北電信会社へ納入している[8]

クニフラー商会は販路拡大のため日本及び欧州での人脈構築に積極的に努めたが、例えば1873年3月岩倉訪米欧使節団の訪独の際、日本政府高官との人的つながりを積極的に求めるクニフラーが、独側の案内役に名乗りを上げ、クルップなどの工場を案内した[9]。 又、新政府発足後長崎から神戸へ移ったカール・イリスは、北ドイツ連邦名誉総領事の立場から紀州藩出身の陸奥宗光と知己となり、以降紀州藩との取引、軍関係との取引等の恩恵を受けた[10]

明治中期になるとイギリスの綿毛製品・鉄・機械・染料・薬品を輸入し、日本からは茶・魚油などを輸出し、日本と海外との貿易拡大に貢献する。

1875年カール・イリスが横浜本店長となり、1880年クニフラーから経営権を継承し、社名をイリス商会(伊理斯商会)とした。

以後新政府の富国強兵政策下、国内インフラ整備、軍備増強が活発に推進され、更に産業振興政策により重厚長大産業を中心に海外製品の需要が高まり、イリス商会も積極的に販路拡大を目指し、結果的に日本の産業発展へ多大な貢献をすることになった。

1890年ハンブルクに戻ったカール・イリスは、その後1898年にイリス商会の本社をドイツハンブルクへと移転した。

その後、イリス商会の日本での事業の発展と共に、神戸・大阪・築地に支店を開設。東京店では主に陸海軍の御用を務めた[11]。横浜には関東大震災まで所在し、幕末から明治・大正期にかけて急速に近代化する日本の中で、水道、港湾建設、橋梁、鉄道、軍事、紡績、製鉄など、多方面にわたり設備と技術を提供し、大きな実績を残した。

1920年には、ドイツ・ボッシュ社と代理店契約を結ぶ。イリス商会神戸支店の施設内にボッシュ製品修理工場を開設し、ボッシュ社の日本進出の足掛かりとして貢献する。

1941年の太平洋戦争勃発時には、大日本帝国陸軍に対してラ式三十七粍高射機関砲(3.7cm Flak18)を納入。 その後の戦争激化および進駐軍統治に伴い、一時期日本の支店を閉鎖した時期もあったが、戦後もいち早く復興した。

現在は株式会社イリスと社名を変更し、ドイツ製機械の輸入を主業務として、日本中国韓国台湾ベトナムインドネシアに300人の従業員を擁する専門商社となっている。

2009年創立150年の記念展示会が横浜美術館(4月〜6月)、出島旧長崎内外クラブ(8月〜11月)で開催された。

現存する在日外資系企業として最古の歴史を誇る。また外資系でありながら日本で創業されたというユニークな企業でもある。

クニフラー・イリスの関与した事業

[編集]

イリスに関与した事のある著名人

[編集]

事業所

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『横浜開港資料館 紀要』(p.11)
  2. ^ 『福翁自伝』(福沢諭吉、p.98-101)
  3. ^ 『熊本大学教養部紀要外国語・外国文学編 第20号』:43-63(1985)「明治初年の東京のドイツ語塾について」(上村直己)
  4. ^ 『China Directory』(1863年)及び『Chronicle & Directory for China, Japan & Philippines』 (1864年)
  5. ^ 『諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達留』(慶応2年)長崎県立図書館
  6. ^ 『長崎奉行所記録』及び『土佐群書集成第19巻』(高知市民図書館発行)
  7. ^ 『経済科学 第34巻第4号』(昭和62年3月)所収「明治前期兵器輸入と貿易商社」(笠井雅直、p.367、382)、『陸海軍省記録』
  8. ^ 『ジーメンスと明治日本』(竹中亨、p.51)
  9. ^ 『現代語訳:米欧回覧実記 / 3』(久米邦武編著/水澤周訳)、『欧米から見た岩倉使節団』(イアン・ニッシュ / 麻田貞雄他訳)
  10. ^ 『Carl Koeppen und sein Wirken als Militaerinstrukteur fuer das Fuerstentum Kii-Wakayama』(Margaret Mehl)
  11. ^ 『私の身の上話』武藤山治 (武藤金太 1934)
  12. ^ 『経済科学 第34巻第4号』(昭和62年3月)所収「明治前期兵器輸入と貿易商社」(笠井雅直、p.367、382)
  13. ^ 『阪堺鉄道会社第一回年報』(明治21年1月)、『工学会誌』(第51巻 p.898、第56巻 p.1279)、『阪堺鉄道の客車・貨車』(p.47)、『ホーエンツォレルンの機関車』(金田茂裕著、機関車史研究会 p.51)
  14. ^ 『琵琶湖疏水:明治の大プロジェクト』(織田直文 p.27)
  15. ^ 『工事要録土木課』(東京都公文書館 明治21年)
  16. ^ 『日本国有鉄道百年史 第1巻(p.393)、クルップ社保存資料(1885年12月 レール積出し明細)
  17. ^ 「綿繻子仕上機械」買付け注文書(群馬県立文書館蔵)
  18. ^ 『皇居造営誌 巻之58 鉄橋架設事業』(宮内庁書稜部)
  19. ^ 『函館市水道百年史』
  20. ^ 『庶政要録土木課』(東京都公文書館 明治20年)
  21. ^ 『Japan-Magazin, 3-4/2003, Ein deutscher Eisenbahn-Ingenieur in Japan der Meiji-Zeit』(Dr. Andrea Hirner)、『海をわたる機関車』(中村尚史 p.89 表10-2 Krauss社製機関車の対日輸出の動向)
  22. ^ 『私の身の上話』(武藤山治 p.87)、『海道炭礦汽船株式会社70年史』(p.427)
  23. ^ 居留地新聞『Kobe Weekly Chronicle』広告 (1898年1月8日付)
  24. ^ 『活動映画「フィルム」関係雑件』(外務省記録 昭和4年8月30日)
  25. ^ 『函館昔話』(函館パルス企画 創刊1周年企画本所載「函館ビヤホールの謎」坂口延幸 1998年 p.62)
  26. ^ 『Die Beziehungen zwischen Japan und Deutschland, 1859-1914』(Michael Rauck p.330)
  27. ^ 『明治40年東京都公文』(東京都公文書館)
  28. ^ 『イリス150年 - 黎明期の記憶』(p.118)
  29. ^ 『福島大学商学論集 第59巻第4号』(「高田商会とウエスチングハウス社」笠井雅直 1991年3月p.201)
  30. ^ 『The Chronicle & Directory for China, Japan and the Philippines』、『Japan Gazette』(1912年)
  31. ^ 『Bosch in Japan』
  32. ^ 『キネマ旬報 341号』(「外国映画輸入配給界」昭和4年9月1日発行)
  33. ^ 『パーロホンレコード目録』(1933年3月まで)
  34. ^ 『鉄のあけぼの(上)』(黒木亮、2012年6月刊 p.40〜41)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]