NEMO/ニモ

日米合作の長編アニメ映画

NEMO/ニモ』は、ウィンザー・マッケイによるアメリカ合衆国コミックストリップリトル・ニモ』を原作とした日米合作長編アニメ映画[1]。制作は日本のテレコム・アニメーションフィルム[2]。監督は波多正美とウィリアム・T・ハーツ[3]。日本では1989(平成元)年7月に夏休みの家族向け作品として公開され[2]、アメリカ合衆国では1992年に公開された[4]

NEMO/ニモ
監督 波多正美
ウィリアム・T・ハーツ
脚本 クリス・コロンバス
リチャード・オッテン
原作 ウィンザー・マッケイ
製作 藤岡豊
ローリー・マクドナルド
製作総指揮 スティーヴン・スピルバーグ
キャスリーン・ケネディ
フランク・マーシャル
ジェラルド・R・モーレン
ウォルター・F・パークス
出演者 合野琢真
大塚周夫
北村弘一
笠原弘子
石田太郎
内海賢二
玄田哲章
横尾まり
大竹宏
音楽 トーマス・チェイス
スティーブ・ラッカー
主題歌 メリサ・マンチェスター
制作会社 テレコム・アニメーションフィルム
製作会社 東京ムービー新社
配給 日本の旗 東宝東和
アメリカ合衆国の旗 ヘムデール・フィルム英語版
公開 日本の旗 1989年7月15日
アメリカ合衆国の旗 1992年7月24日
上映時間 日本の旗 94分
アメリカ合衆国の旗 85分
製作国 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 日本語
英語
製作費 53億円($35,000,000)
興行収入 9億円
配給収入 4.5億円
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公開当時のキャッチコピーは「少年には夢の降る夜がある Would you like to go into "Dream World"?」。

概要

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20世紀初頭のウィンザー・マッケイによるアメリカの新聞連載漫画の古典的名作『夢の国のリトル・ニモ(Little Nemo in slumberland)』を原作に、東京ムービー新社の社長だった藤岡豊の「米国で大ヒットするアニメ映画を日本主導で作りたい」という希望をもとに、初めから欧米進出を狙って制作された、日本アニメ界のパイオニア的作品である[2][4]。映画のために新たに制作会社テレコム・アニメーションフィルム(以下、テレコム)が設立され、構想10年・制作期間7年、総製作費55億円をかけた、日本のアニメ史でも並ぶもののないビッグプロジェクトである[5][6]。日本からは宮崎駿高畑勲出崎統大塚康生、アメリカからはスター・ウォーズシリーズのプロデューサーだったゲイリー・カーツSF作家レイ・ブラッドベリ、当時サンタモニカに仕事場を置いていたフランスバンド・デシネ作家・イラストレーターメビウスブライアン・フラウド英語版など、内外の大物クリエイターたちが多数参加するが[注 1]、上手く歯車が噛み合わず、制作は難航した[4][5]。メインスタッフは二転三転し、クリエイター達が提出した膨大な数のアイデアやデザインの大半は使われないままで終わった[5]。その後、作品には使用されなかった宮崎駿や近藤喜文のイメージボードが書籍などで公開されたり、映像ソフトの特典として月岡貞夫版(1980年)、近藤喜文・友永和秀版(1984年)、出崎統・杉野昭夫版(1987年)の3つのバージョンのパイロットフィルムが収録されたりした。映画の完成は遅れに遅れ、製作費も膨れ上がった[4]。最終的に映画は波多正美、ウィリアム・T・ハーツ両監督によって完成して公開されたものの、商業的には失敗に終わった[3]

本作は興行的には失敗し、藤岡はアニメ業界から引退することになったものの、高畑勲・宮崎駿監督作品、そして日米のアニメーション界全体に、無視することができない大きな影響を与えている[7][8]。多くのアニメ作品を手掛けることになるテレコムはこの作品のために設立され、同社が本作のための実践練習として制作した『ルパン三世 カリオストロの城』『じゃりン子チエ』などの長編アニメを宮崎・高畑が監督するという座組は、スタジオジブリ設立へのきっかけとなった[1][8]。宮崎と入れ替わりに本作に参加したメビウスは、彼の残したストーリーボードなどを見て衝撃を受け、もともとメビウスファンだった宮崎と交流するようになる[9][10]。制作期間中、アメリカの東京ムービー・ロサンゼルスオフィスには、日本アニメに関心のあるアメリカのアニメ関係者の訪問が頻繁にあり、その中には自らを売り込みに来たジョン・ラセターブラッド・バードもいて、宮崎との交流がそこから始まったという[4][11]。藤岡がディズニーナイン・オールドメンと呼ばれる超ベテランのディレクティング・アニメーターだったフランク・トーマスオリー・ジョンストンを招聘したことで、ジブリとディズニーのつながりができた[12]

公開時は、日比谷映画で国内唯一の70mm版プリントが上映された[2]

あらすじ

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夜になるとベッドごと浮遊する夢を見る想像力あふれる少年・ニモ。ある夜、いつものように眠りについたニモは、夢の国スランバーランドからモルフェウス大王の使いで彼を招待しに来たジーニアス教授の訪問を受ける。 飛行船でスランバーランドに向かったニモは、そこでモルフェウス大王から王女と結婚させて王位を継がせるつもりであることを明かされる。そして「同じ印のついた扉は決して開けてはならない」という秘密の鍵を渡されるが、嫌われ者のフリップにそそのかされたニモは、その開けてはならない扉を開けてしまう。

キャスト

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スタッフ

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主題歌

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オープニングテーマ「Little Nemo (ニモのテーマ)」
作詞・作曲 – ロバート・シャーマンリチャード・シャーマンシャーマン兄弟) / 歌 - メリサ・マンチェスター
エンディングテーマ「Slumberland (スランバーランドのテーマ)」
作詞・作曲 – ロバート・シャーマン、リチャード・シャーマン(シャーマン兄弟) / 歌 - Melissa Manchester

企画・製作

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本作の企画をプロデューサーとして先導した東京ムービー社長(当時)の藤岡豊は、かねてより日本国内でのアニメビジネスに限界を感じ、アメリカ市場への進出を考えていた[7]。そこで彼は新たに制作会社を作り、そこをベースに日米合作のアニメーション映画を制作して世界配給することを目論む[1][2]。1975年にテレコム・アニメーションフィルム(以下、テレコム)を設立し、1977年にはアメリカでは抜群の知名度を持ち、ウォルト・ディズニー存命中に二度の映画化企画が持ち上がったという伝説的漫画『リトル・ニモ』の映像化権取得に乗り出した[2][7][注 2]。そして1978年夏、アメリカに渡った藤岡は、本作の映画化権を取得する[1]

藤岡には、「ディズニーに対抗できるフル・アニメーション映画を作る」というもう一つの夢があった[1][注 3]。そしてそのために全くアニメの経験がない新人たちを新規に採用し[注 4]、大塚康生が育成を受け持った[1][7]。しかし制作費調達やアニメーターの経験不足によりスタッフ編成が難航し、なかなか実作業に入れなかったため、テレコムは他のスタジオから現場の叩き上げのスタッフをかき集め、『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』や宮崎駿監督の映画『ルパン三世 カリオストロの城』、高畑勲監督の映画『じゃりん子チエ』を手掛けることになった[7]。そして藤岡はアメリカで関係者向けにその二つの映画の上映会を度々開催し、自社の実力をアピールすることに利用した[7]

1981年春、藤岡は消費者金融レイクから出資を取り付け、40億円もの資金を得ると、日本側のプロデューサーに自ら就任[1]

藤岡は当初、アメリカ市場に食い込むために当時絶頂期にあったジョージ・ルーカスに共同製作の話を持ち掛けた[14]。しかし、ルーカスは原案のストーリーに難があるとして謝絶し、『ルーニー・テューンズ』で知られるチャック・ジョーンズからも断られた。そこで藤岡は、ルーカスに推薦されたスター・ウォーズシリーズ初期のプロデューサー、ゲイリー・カーツにアメリカ側のプロデューサーを依頼するとカーツはこれを快諾、さらに彼の推薦で脚本はSF界の超大物レイ・ブラッドベリに決まった[1][2]。そして日米合作のため、東京ムービー新社とカーツのキネト・グラフィック社との合弁会社のアメリカ法人キネトTMSを設立し、制作へ向けて本格的に始動する[14][15]。同時に藤岡とゲーリー・カーツの2人がエグゼクティブ・プロデューサーに就任し、映画の内容についてはゲイリー・カーツ、予算など制作上での管理については藤岡豊と、ふたりの役割が分けられた[14][15]

1982年夏、カーツは自分の意向を反映させるよう、ブラッドベリとエドワード・サマー英語版に全面的にストーリーを書き直させた[14]。『Nemo』(誰でもない者)という名が裏返すと『Omen』(前兆)という名になることに気づいたブラッドベリの用意したスクリプトは、「分裂したもう一人の人格オーメンに導かれるように夢の世界の深部に潜り込んだニモは、オーメンを倒して現実世界への帰還を果たす」というものだった[14]。一方、宮崎駿が準備していた原案は、「夢の世界」を現実に存在する別世界と考え、「捨てられたロボットたちの王国とそのプリンセス、そして飛行船の盗賊の話」という後の『天空の城ラピュタ』の原型だった[14]

その頃、藤岡はディズニー流の「フル・アニメーション」制作のため、ディズニー草創期からの伝説のアニメーター集団"ナイン・オールドメン"から、フランク・トーマスとオリー・ジョンストンを顧問に迎えていた[1][15]。そして同じ1982年の夏、2人の招きで高畑勲、宮崎駿、大塚康生、近藤喜文、友永和秀、山本二三ら計12人の日本側スタッフが、アメリカ式のキャラクターアニメーションの講習を受けるための研修会の名目で渡米する[11]。しかし、二人は宮崎の描いたスケッチを見て、「自分たちに教えることは何もない」と困惑する[1]。日本側のスタッフも、彼らの創作姿勢に大きな刺激を受ける[11]。トーマスとジョンストンの紹介したアンディ・ガスキル英語版ロジャー・アラーズ英語版と後にディズニー作品を支える面々が参加することになり、彼らと合同して作業を行うためにメインスタッフは日本とアメリカを往復した[16]

日本側の監督候補には宮崎と後から参加予定の高畑が挙げられていたが、宮崎は「初めから夢の世界が舞台と公言した作品では観客が白けるだけだ」と早い段階から企画自体に否定的だった[15]。ブラッドベリによるシナリオ第一稿を読んでそれがエンターテインメントとして成立するのかどうかを訝しんだ宮崎は、カーツに自身が考える娯楽映画の要素をまとめたレポートを提出する[15]。それが却下されたのを知ると、今度は藤岡に『もののけ姫』となった「戦国時代を舞台にした獣に変えられた若者と姫の物語」、アメリカのマンガ『ROWLF』を参考にした「王女と彼女に従う狼の悪魔退治の物語」およびそのイメージから派生し、『風の谷のナウシカ』のイメージソースとなった「風使いのヤラ」や「土鬼の王女」などの案を提示した[1][11][12]。しかし藤岡にプロットを変える権限はなく、それらが採用されることはなかった[1]。そして宮崎は 1982年11月22日にテレコムを退社し、プロジェクトから降りた[11]

宮崎と入れ替わるように参加した高畑は、ジェームズ・バリの『ピーターパン』やモーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』などを拠りどころとしてストーリーを組み立てようとした[17]。そしてブラッドベリのアイデアを取り入れ、「主人公がふたつの立場に分裂し、それぞれ物語の構成要素となる」という物語の構造を考えた[18][注 5]。しかし1983年3月12日、今度は高畑がプロット案でカーツと衝突して降ろされる[1]

宮崎・高畑の離脱後、プロジェクトはさらに迷走を重ねる[1][11]。近藤喜文、大塚康生と日本側の演出担当は目まぐるしく入れ替わり、独断専行を続けていたカーツは現場から外された[19]

日本側演出が決まらないまま2年の準備期間が過ぎ、肝心の作画作業に入る前に45億円の製作資金が底を突いてしまい、制作は1984年8月にいったん中断する[2]

中断期間中の1985年5月から1986年5月にかけて、クリス・コロンバスがプロットを持ち込み、その案をもとに決定稿は作られた[20]

3年後の1987年にレイクが10億円の追加出資に応じると、藤岡は真っ先にカーツとの契約を解除してスタッフの変更を行った上で、新たに設立したロサンゼルスTMSで制作を再開。自ら全面的な指揮を執るようになった[11]。最終的に日本側の監督はサンリオアニメ映画フルアニメーションの経験がある波多正美が、アメリカ側には、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンの推薦でウィリアム・T・ハーツが起用され、映画は1988年にようやく完成した[2][注 6]

公開・興行収入

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フィルムは1988年に完成し、日本では『NEMO/ニモ』のタイトルで1989年7月15日東宝東和系で公開された[11]。約55億円という破格の製作費がかけられた大作であったが、興行収入は9億円前後に終わった[要出典][注 7]。アメリカでの公開も、日本での失敗が響いてディズニーとの交渉が決裂して大幅に遅れ、3年後の1992年7月24日ヘムデール・フィルム英語版の配給でようやく公開されることになった[11]579館[要出典]で上映され、新聞その他の評価は高かったものの、まったく客が入らず、興行収益も総計137万ドル弱(約1億4000万円)[要出典]という記録的な大失敗作となる。ビデオは400万本売れて元は取れたと言うが、劇場への観客動員という点では失敗であった[4]。またその利益が東京ムービーへ還元されることはなく、制作費の回収には至らなかった[11]。藤岡豊はその責任をとり、東京ムービー関連の全ての権利を手放して退社[11]。アニメ業界からも身を引くことになり[2]1996年3月30日に死去した。

映像ソフト

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日本では、ビデオグラムは劇場公開時と同じ94分である[22]

アメリカでは、85分に編集されたものが劇場公開され[23]VHSも同じく85分で発売された[24]。その後、DVDBlu-ray Discで発売される際に95分に再編集された。

発売日 タイトル 規格 規格品番 レーベル 備考
1990年12月21日 NEMO ニモ 字幕スーパー版 VHS PCVT-30028 ポニーキャニオン 特典映像としてパイロットフィルムとメイキングを収録。
1990年12月21日 NEMO ニモ 日本語版 VHS PCVT-30029 ポニーキャニオン
1990年12月21日 NEMO ニモ LD PCLT-00001 ポニーキャニオン
1991年2月6日 NEMO ニモ 5000枚限定LD-BOX LD PCLT-00002 ポニーキャニオン パイロットフィルムとメイキングの入った特典ディスクや設定資料集などを収録。
2005年12月23日 リトル・ニモ DVD BCBA-2320 バンダイビジュアル 特典映像として近藤・友永版、出崎・杉野版の2種のパイロットフィルムやメイキング、デジタルギャラリーなどを収録。
2019年7月31日 想い出のアニメライブラリー 第104集 リトル・ニモ BD BFTD-0312 TCエンタテインメント 特典映像として月岡貞夫版、近藤・友永版、出崎・杉野版の3種のパイロットフィルムを収録。

脚注

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注釈

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  1. ^ これは藤岡の意向によるもので、アメリカ公開で知名度のある人物が宣伝になるという興行的な意図があった。
  2. ^ この作品を強力に薦めたのは、当時、講談社の「少年マガジン」編集長だった内田勝である[13]
  3. ^ 日本のアニメは手塚治虫が採用・発展させたリミテッド・アニメーションが主流で、アメリカとは全く別の進化を遂げていた。
  4. ^ 下手にリミテッド・アニメーションの経験がない方がいいと考えたため。
  5. ^ それは後に『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』に引き継がれた。
  6. ^ ただし、本作に最初から関わる大塚康生は、「監督といってもこれまでの準備段階で大量に蓄積された素材をさばいてまとめる処理屋としての性格が強いものである」と言っている。このような事実上の監督不在の製作過程において、現場では、米国主導で、ケン・アンダーソンやレオ・サルキンら、ディズニースタジオ出身のアニメーターが各シーンの原画を描いており、出来上がった作品も全体の雰囲気がディズニー作品に酷似している。
  7. ^ 配給収入は4.5億円[21]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 宮崎駿も降板、壮大すぎたアニメ「NEMO/ニモ」映画より面白い制作過程!”. Re:minder. 株式会社リマインダー (2019年11月22日). 2022年4月3日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 西川昭幸 (2019年9月22日). “日本アニメ海外進出の先鞭をつけた野心作 NEMO ニモ(東宝東和)”. 日本映画100年史. 2022年4月3日閲覧。
  3. ^ a b 練馬にいた! アニメの巨人たち > 第16回 高畑 勲さん(アニメーション映画監督)その2”. 練馬アニメーションサイト (2018年10月). 2022年4月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f “【1980年代 (3)】宮崎駿作品でもヒットしなかった時代”. KADOKAWA, 株式会社はてな. https://kakuyomu.jp/works/1177354054888261012/episodes/1177354054889724913 2022年4月3日閲覧。 
  5. ^ a b c 小黒祐一郎 (2005年11月21日). “アニメ様の七転八倒 第22回 日本アニメ史 空前の大プロジェクト”. WEBアニメスタイル. 株式会社スタイル. 2022年4月3日閲覧。
  6. ^ 日本最小のフィルム映画館で傑作アニメ『リトル・ニモ』が現代に蘇る! 《『リトル・ニモ』と80年代テレコム・アニメーションの世界》開催”. 株式会社シネマノヴェチェント プレスリリース. valuepress (2018年5月29日). 2022年4月3日閲覧。
  7. ^ a b c d e f 宮崎駿監督幻の米デビュー作『リトル・ニモ』 企画途中で離脱も、数々の出会いと「名作」が生まれ…(1)”. マグミクス. メディア・ヴァーグ (2021年12月2日). 2022年4月3日閲覧。
  8. ^ a b 日本のアニメ100周年記念 「これからのアニメとこれまでのアニメ」”. アニメNEXT_100. 日本動画協会 (2020年3月12日). 2022年4月3日閲覧。
  9. ^ リトル・ニモの野望 2004.
  10. ^ ユーロマンガ最新号は、メビウス追悼特集 宮崎駿コメントなど”. アニメ!アニメ!. イード (2012年7月24日). 2022年4月1日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k 宮崎駿監督幻の米デビュー作『リトル・ニモ』 企画途中で離脱も、数々の出会いと「名作」が生まれ…(3)”. マグミクス. メディア・ヴァーグ (2021年12月2日). 2022年4月3日閲覧。
  12. ^ a b 片渕須直 (2010年1月18日). “β運動の岸辺で 第18回 捨てられた骨法”. WEBアニメスタイル. 株式会社スタイル. 2022年4月3日閲覧。
  13. ^ 清水浩二 (2003年12月26日). “「ロサンゼルスの思い出1 ロイドの藤岡邸とサッちゃん(常田幸子さん)」”. エッセイ「思い出のキャラ図鑑」. NINGYONOIE ARCHIVES*劇団人形の家公式サイト. 2022年4月3日閲覧。
  14. ^ a b c d e f 片渕須直 (2009年12月21日). “β運動の岸辺で 第16回 思弁的なハリウッド”. WEBアニメスタイル. 株式会社スタイル. 2022年4月3日閲覧。
  15. ^ a b c d e 宮崎駿監督幻の米デビュー作『リトル・ニモ』 企画途中で離脱も、数々の出会いと「名作」が生まれ…(2)”. マグミクス. メディア・ヴァーグ (2021年12月2日). 2022年4月3日閲覧。
  16. ^ 片渕須直 (2010年2月22日). “β運動の岸辺で 第22回 演助助になる”. WEBアニメスタイル. 株式会社スタイル. 2022年4月3日閲覧。
  17. ^ 片渕須直 (2010年2月1日). “β運動の岸辺で 第20回 ひっかしいだ新スタジオ”. WEBアニメスタイル. 株式会社スタイル. 2022年4月3日閲覧。
  18. ^ 片渕須直 (2010年3月8日). “β運動の岸辺で 第24回 演出補になる”. WEBアニメスタイル. 株式会社スタイル. 2022年4月3日閲覧。
  19. ^ 片渕須直 (2010年5月24日). “β運動の岸辺で 第33回 突貫作業へのいざない”. WEBアニメスタイル. 株式会社スタイル. 2022年4月3日閲覧。
  20. ^ 清水浩二 (2004年2月28日). “「ロサンゼルスの思い出4 国際フィルム博覧会とクリス・コロンバス(Chris Columbus)さん」”. エッセイ「思い出のキャラ図鑑」. NINGYONOIE ARCHIVES*劇団人形の家公式サイト. 2022年4月3日閲覧。
  21. ^ キネマ旬報2月下旬号 1990, p. 175.
  22. ^ ニモ 日本映画データベース
  23. ^ Little Nemo: Adventures in Slumberland (1989) The Internet Movie Database
  24. ^ ASIN 6302650046, Little Nemo: Adventures in Slumberland (VHS) (1992) amazon.com

参考文献

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  • 大塚康生『リトル・ニモの野望』徳間書店、2004年7月22日。ISBN 978-4198618902 
  • 「邦画フリーブッキング配収ベスト作品」『キネマ旬報1990年平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社、1990年。 

外部リンク

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