永田雅宜
永田 雅宜(ながた まさよし、1927年2月9日 - 2008年8月27日)は、日本の数学者。学位は、理学博士(京都大学)[2]。京都大学名誉教授。日本数学会理事・日本学術会議会員・国際数学連合副会長を歴任。中日文化賞・日本学士院賞受賞。正四位勲二等瑞宝章。愛知県知多郡大府町峯畑(現・大府市若草町)出身[3]。
生誕 |
1927年2月9日 愛知県知多郡大府町(現・大府市) |
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死没 |
2008年8月27日(81歳没) 京都府京都市 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 数学 |
研究機関 | 名古屋大学、京都大学、ハーバード大学、岡山理科大学 |
出身校 | 名古屋大学 |
博士課程 指導教員 | 中山正 |
主な業績 | ヒルベルトの第14問題の解決 |
主な受賞歴 |
正四位勲二等瑞宝章 中日文化賞(1961年)[1] |
プロジェクト:人物伝 |
経歴
編集1927年(昭和2年)2月9日、愛知県知多郡大府町峯畑(現・大府市若草町3丁目)に生まれた。大府町立大府小学校、愛知県刈谷中学校(現・愛知県立刈谷高等学校)を卒業した[3]。名古屋大学理学部数学科に進学し、在学中には開校間もない愛知県立大府高等学校の非常勤講師を1年間務めている。1950年(昭和25年)に名古屋大学理学部を卒業すると[3]、そのまま名古屋大学大学院に進学し、また名古屋大学で助手を務めた。その後は京都大学で講師となり、代数幾何学スクールで学生に教えた。
1957年(昭和32年)にはアメリカ合衆国に渡り、ハーバード大学の研究員となった。同年7月には京都大学理学部数学科の助教授(代数学講座)となった。1958年(昭和33年)にはイギリスのエディンバラで開催された国際数学者会議(ICM)で招待講演を行っている[4]。1963年(昭和38年)2月には京都大学理学部数学科の教授(代数学講座)となった。
1980年(昭和55年)11月から1982年(昭和57年)11月には京都大学の評議員を務めた。1990年(平成2年)3月に京都大学を退官して名誉教授となると、岡山理科大学理学部教授に就任した。1998年(平成10年)には勲二等瑞宝章を受章した[5]。1999年(平成11年)には岡山理科大学を退職すると、その後は兵庫県多可町八千代区の小学生に数学を教え、「数の面白さ」や「自分で考えることの重要性」を伝えることに力を注いだ。
2008年(平成20年)8月27日、胆管がんにて死去した。81歳没。
業績
編集1960年代、1970年代に可換環論と代数幾何学の基礎付けにおいて大きな業績を残した。不変式論を用いてヒルベルトの第14問題の反例を構成し否定的に解決した[3]。他にも代数多様体のコンパクト化、ネーター環における業績がある。
ヒルベルト第14問題を否定的に解決した論文は僅か7ページだった[6]。
家族
編集京都大学数理解析研究所助教の永田雅嗣は息子。
著作
編集脚注
編集- ^ “中日文化賞 受賞者一覧”. 中日新聞. 2022年5月17日閲覧。
- ^ 学位論文"A treatise on the 14-th problem of Hilbert."
- ^ a b c d “大府商工会議所会報 vol.163” (PDF). 大府商工会議所 (2015年10月2日). 2022年5月17日閲覧。
- ^ ICM Plenary and Invited Speakers 国際数学者連合公式サイト(英文)
- ^ 「98年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、及び外国人の受章者一覧」『読売新聞』1996年11月3日朝刊
- ^ M. Nagata, On the 14-th Problem of Hilbert, American Journal of Mathematics, Vol. 81, No. 3 (Jul., 1959), pp. 766–772.
参考文献
編集- 「数学の巨人 永田雅宜 ~ひたむきに歩き続けた人生~」 - (全29分) 2005年 サイエンスチャンネル
関連項目
編集- アレクサンドル・グロタンディーク
- スキーム
- 永田の定理
- 向井茂
- 森重文
- Eakin-永田の定理 - Noether環Aが部分環Bの上に有限生成であれば,BもNoether環である。1967年。
外部リンク
編集- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『永田雅宜』 - コトバンク
- O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “Masayoshi Nagata”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews.