魚津町
日本の富山県下新川郡にあった町
うおづまち 魚津町 | |
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廃止日 | 1952年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 魚津町、道下村、上中島村、下中島村、松倉村、上野方村、下野方村、片貝谷村、加積村、経田村、天神村、西布施村 → 魚津市 |
現在の自治体 | 魚津市 |
廃止時点のデータ | |
国 |
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地方 | 中部地方(北陸地方) |
都道府県 | 富山県 |
郡 | 下新川郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 1.06[1] km2. |
総人口 |
15,548[1]人 (1952年合併直前) |
隣接自治体 | 道下村、加積村、下野方村、下中島村 |
魚津町役場 | |
所在地 | 富山県下新川郡魚津町大町→田方町 |
座標 | 北緯36度49分10秒 東経137度23分52秒 / 北緯36.81936度 東経137.39772度座標: 北緯36度49分10秒 東経137度23分52秒 / 北緯36.81936度 東経137.39772度 |
ウィキプロジェクト |
現在の魚津市の中心となった町である。かつての魚津城の城下町、新川の政治経済の中心都市、北陸街道の宿場町および港町であった。ここでは、町村制施行以前の魚津町についても述べる。
地理
編集現在の魚津市の旧市街地の部分。松倉城の寺社、町人などが角川と鴨川の間の北陸道沿いに移ったのが、街の始まりである。以後、加賀藩の越中東部(呉東もしくは新川)の拠点として発展した。
- 市街地が町の面積の大半を占める。
歴史
編集魚津町にあった町
編集- 明治期(町村制施行)までにできた町
大町、新塩屋町、住吉町、橋向町、新上猟師町、橋場町、八代町、八幡町、紺屋町、角川町、上新町、上猟師町、岡町、臼屋小路、出丸町、馬出町、荒町、田方町、東小路、真成寺町、寺町、下猟師町、下新町、新下猟師町、餌指町、神明町、金屋町、川原町、金浦町、鴨川町
- 町村制施行時に一部を魚津町に編入(()内は旧村名)
三ヶ町(三ヶ)、新住吉町(住吉)、田地方町(魚津田地方村)、大光寺町(大光寺)、友道町(友道)、本江町(本江)、下村木町(下村木)、上村木町(上村木)
特徴
編集魚津町は下新川郡で最大の町で、郡役所が置かれる中心的な町であった。しかし、面積が狭く、一部の魚津町関連の企業、施設は他の町村に置かれていた。
- 道下村 - 魚津駅、日本カーバイド工業魚津工場が立地し、魚津町北部の延長として発展。
- 下野方村 - 電鉄魚津駅、魚津高等女学校(後に建物を魚津西部中学校に譲渡)、吉田工業(現・YKK)が立地するなど、魚津町と接する地域が市街地の延長として発展。
- 加積村 - 魚津中学校、後の魚津高等学校が立地し、大字上村木の北陸街道沿いが魚津町市街地の延長として発展。
- 下中島村 - 北陸街道沿いが市街地南部の延長として発展。
このため、魚津町は周辺町村の合併を目指すことになったが、実現するのは1952年になってからである。
歴代町長
編集出典→[2]
- 寺崎与一郎(1889年6月1日 - 1890年3月17日)
- 五十嵐久造(1890年4月21日 - 1894年4月29日)
- 寺崎与一郎(1894年4月30日 - 1898年4月29日)
- 沢田六郎兵衛(1898年4月30日 - 1902年4月29日)
- 藤田佐士郎(1902年4月30日 - 1908年5月12日)
- 小野時男(1908年6月16日 - 1912年6月15日)
- 寺崎孝吉(1912年6月16日 - 1913年3月31日)
- 佐伯有台(1913年7月5日 - 1917年6月19日)
- 膳亀三郎(1917年7月31日 - 1925年7月30日)
- 西田源次郎(1925年7月31日 - 1927年9月17日)
- 西田源次郎(1927年10月5日 - 1931年10月4日)
- 伊東清太郎(1932年8月5日 - 1933年1月25日)
- 菅野猛(1933年3月3日 - 1933年5月30日)
- 大島三佐雄(1933年6月11日 - 1934年12月15日)
- 山川亭(1934年12月22日 - 1936年8月25日)
- 黒田繁次郎(1936年10月14日 - 1940年10月13日)
- 大島忠康(1940年10月13日 - 1942年3月14日)
- 西田源次郎(1942年6月24日 - 1945年12月29日)
- 金光邦三(1946年1月19日 - 1946年10月2日)
- 清水秀英(1946年11月19日 - 1951年4月4日)
- 寺田太吉(1951年4月23日 - 1952年3月31日)