高木義人
高木 義人(たかぎ よしと、1886年(明治19年)4月10日[1] - 1956年(昭和31年)8月15日[2])は、日本の政治家、陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。政治家としては衆議院議員を歴任した。長野県出身。陸士19期、陸大26期。
高木 義人 | |
---|---|
生誕 |
1886年4月10日 長野県南安曇郡高家村 |
死没 | 1956年8月15日(70歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1907年 - 1940年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 留守第2師団 |
戦闘 |
シベリア出兵 満州事変 日中戦争 |
勲章 |
勲一等旭日大綬章 功二級金鵄勲章 |
出身校 |
陸軍士官学校 陸軍大学校 |
所属政党 | 大政翼賛会 |
---|---|
選挙区 | 宮城2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1942年4月30日 - 1945年4月1日 |
在任期間 | 1945年12月1日 - 1945年12月18日 |
経歴
編集長野県南安曇郡高家村(現在の安曇野市)出身[3]。松本中学を経て[4]、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)[1][5]を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官[5]。1914年(大正3年)には陸軍大学校(26期)[1][6]を卒業した[2]。浦塩派遣軍参謀、参謀本部員、第14師団参謀、第6師団参謀、台湾歩兵第1連隊大隊長、奉天独立守備第2大隊長、福井連隊区司令官、歩兵第26連隊長、第8師団参謀長、歩兵第39旅団長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月15日には留守第2師団長に就任し[1][6]、1939年(昭和14年)3月9日陸軍中将に進級した[1][3][7][8]。その間、シベリア出兵・満州事変・日中戦争に従軍した[3][7]。1940年(昭和15年)10月31日、予備役編入[1][6][8]。
1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を得て宮城2区(当時)から出馬し、当選を果たした。在任中、選挙区の石巻市から任期満了を機に市長を岩崎孫八(元陸軍中佐)から高木に替えようとする動きがあり、一部の市議が高木を市長にしようと画策したが、高木が辞退したため、石巻市長には就かなかった[9][10][注 1]。
1945年(昭和20年)4月1日、召集されて仙台師管区司令官に補され[1][6]、同時に衆議院議員を退職となる[11]。敗戦により同年12月1日に復職[12]。その後は公職追放となった[13]。
栄典
編集- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[14]
脚注
編集注釈
編集- ^ 『人事興信録 第14版(下)』タ101頁では「石巻市長」という記述があるが、『石巻市史』第3巻、『日本の歴代市長』第1巻ほか各資料には高木が石巻市長に就いた記述はない。
出典
編集- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』416-417頁。
- ^ a b 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
- ^ a b c 『衆議院要覧』
- ^ 赤羽ほか 1989, 408頁.
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』238、242頁。
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』242頁。
- ^ a b 『翼賛議員銘鑑』p.240
- ^ a b 『人事興信録 第14版(下)』タ101頁
- ^ 『石巻市史』第3巻、200頁。
- ^ 『石巻の大正・昭和・平成-ふる里と歩んだ石巻日日新聞の100年』130頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』499頁
- ^ 『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』518頁
- ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、616頁。NDLJP:1276156。 )
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
編集- 『衆議院要覧(乙) 昭和十七年十一月』衆議院事務局、1942年。
- 『人事興信録 第十四版(下)』人事興信所、1943年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 赤羽篤ほか 編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。ISBN 4876631263。