首藤 正寿(すどう まさひさ、1879年明治12年)11月30日 - 1934年昭和9年)10月21日)は、日本銀行家台湾銀行理事、大分合同銀行頭取、名古屋銀行副頭取、南満洲鉄道理事等を歴任した。

来歴・人物

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大分県大野郡小富士村に生まれる[1]。父の生男は大分県会議員だった[2][3]

旧制大分県立大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)を経て[2]、1903年に東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し[1]横浜正金銀行に入行した[4][1]ボンベイ支店長、上海支店長、大阪支店長、本社副総支配人を経て[1][5]、1923年台湾銀行の理事に就任した[1]

井上準之助の要請で1927年から大分銀行二十三銀行と合併して誕生した郷里の大分合同銀行で初代頭取を務め[1]出光佐三と面会し、審査部の意向に反し融資拡大を決定するなどした[6]。1930年病気退任。1931年名古屋銀行副頭取兼常務[1]

同年に南満洲鉄道理事となり[7][2][1]、1932年に退任[8]東三省官銀号中国語版監理官や辺業銀行中国語版監理官も務め[9][10]松崎寿大阪商科大学教授)らとともに、満洲国の貨幣や金融制度創設に参画し、貨幣法満洲中央銀行設立の立案をおこなった[10][11]。1934年に感胃で療養中名古屋市中区宮前町の自宅で死去。享年56(満54歳没)[4][12]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 20世紀日本人名事典 2004.
  2. ^ a b c 二豊名家言行録
  3. ^ 首藤正壽 - 『人事興信録』第8版(1928年7月、リンク先は名古屋大学大学院法学研究科の「人事興信録データベース」)
  4. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus 2004.
  5. ^ 支那改革借款一件 第四十四巻 分割4国立公文書館
  6. ^ 「(三)廃業寸前」,水木楊『出光佐三反骨の言魂(ことだま): 日本人としての誇りを貫いた男の生涯』
  7. ^ 統計年報 昭和6年 図書 南満洲鉄道株式会社 編 南満洲鉄道, 昭和8
  8. ^ 統計年報 昭和7年
  9. ^ 満洲通貨金融方策 立案調査書類第25編第1卷第1號 (立案調査書類 ; 第25編 第1巻 第1号)
  10. ^ a b 満洲中央銀行沿革史 (通報号外 ; 第44号)
  11. ^ 満洲中央銀行沿革史 (通報号外 ; 第44号)
  12. ^ 杉本昭七「世界経済の統合化と企業内世界分業」『国際経済』第1980巻第31号、1980年、21–38頁、doi:10.5652/kokusaikeizai.1980.21ISSN 1884-4359 

参考文献

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先代
廣岡惠三
大分合同銀行頭取
1927年 - 1930年
次代
藤田軍太