飯田 義武(いいだ よしたけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣で、毛利水軍の将の一人。通称は七郎右衛門。受領名越中

 
飯田義武
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 天正20年7月7日1592年8月14日
別名 通称:弥七郎、七郎右衛門
官位 越中守
主君 毛利元就輝元
氏族 清和源氏頼信飯田氏
父母 父:飯田藤左衛門
元著
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出自

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安芸国飯田氏は、相模国飯田荘を領した源頼信の子孫・飯田信基を祖とし、毛利譜代家臣・飯田元親とは別系とされる。なお、義武の父・藤左衛門以前の系譜については不明。

生涯

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飯田藤左衛門の子として生まれる。

初めは安芸武田氏の配下として度々近隣の戦役に従軍するが、毛利元就の台頭により武田氏と毛利氏の戦闘が激化。天文10年(1541年)、毛利元就は安芸武田氏を滅亡に追い込み、大内義隆より佐東川下流域を加増された。その際に安芸武田氏配下だった飯田義武も家臣団に組み込まれることとなる。吉田の山奥から瀬戸内海へ通じる領土を得た元就は、水軍の重要性を認め、毛利家の譜代家臣の児玉就方と元々武田の水軍衆を率いていた義武に川内警固衆を統率させ、同じく武田氏の旧臣で川内警固衆の福井元信山県就相与力として附属させた。これによって毛利水軍が成立した。

天文20年(1551年)の大寧寺の変の後に周防国大内氏を牛耳る陶晴賢との対立が先鋭化すると、義武は川内警固衆を率いて大内方の水軍と激突する。天文24年(1555年6月8日宮尾城の防備を巡視するため、元就が安芸国佐伯郡大野浦から厳島へ渡海する途上、陶晴賢麾下の桑原隆祐らの軍船3隻が元就が乗る船に迫った。これに対し、元就に従う桑原龍秋金山次郎五郎らが奮戦して防ぎ、義武は乃美宗勝らと共に元就の救援にかけつけ、桑原隆祐を討ち取った。さらに桑原隆祐の戦死により敗走した陶の軍船を追撃し、水夫や舵手に至るまでことごとく討ち取った。また同年の厳島の戦いでは元就率いる本隊を厳島の裏側の包ヶ浦に上陸させ、勝利の一翼を担った。

その後も毛利水軍の一員として出陣し、弘治2年(1556年)から始まる防長経略豊後国大友氏との戦い、天正4年(1576年)の織田氏との第一次木津川口の戦いでは石山本願寺への兵糧搬入などを担った。石山本願寺の顕如から兵糧搬入に関して感謝状と刀を拝領する。

天正20年(1592年7月7日に死去。嫡男の元著が後を継いだ。飯田家は毛利氏より周防大島の三蒲に393石の領地を賜る。主君毛利家の関ケ原敗戦による防長2ヵ国への減封にも従い、江戸時代を通して明治維新まで長州藩船手組の一員として主君毛利氏に仕えた。

参考文献

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