飯田直景
飯田 直景(いいだ なおかげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。尾張加藤氏の家臣。通称の飯田覚兵衛(飯田角兵衛とも)で有名。日本槍柱七本や加藤十六将、加藤家三傑の1人[1]。食録6,500石。後に10,500石に加増。講談の逸話でも有名。
熊本市の阿弥陀寺にある飯田覚兵衛の墓(供養塔) | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 永禄5年(1562年) |
死没 | 寛永9年9月18日(1632年10月31日) |
改名 | 才八、久次郎(幼名)→直景 |
別名 | 基久、重氏、通称:覚兵衛、角兵衛 |
主君 | 加藤清正→忠広→黒田長政 |
氏族 | 飯田氏 |
父母 | 父:飯田直澄 |
子 | 直国(覚兵衛)、男子二人 |
生涯
編集永禄5年(1562年)、飯田直澄の子として山城国山崎にて誕生。若い頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで加藤家三傑、三宅角左衛門とともに加藤家の両角と呼ばれる重臣となった。武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいても清正の先鋒として活躍した。
天正17年(1589年)天草国人一揆討伐で活躍し、秀吉から清正を通じて白黒鳥毛の長槍を賜ったと伝えられている。
朝鮮出兵では、森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる(第二次晋州城攻防戦)。なお、この功績により豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたとされるが、書状などでは「角」兵衛のままである。
土木普請も得意とし、清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。180mにも及ぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。名古屋城普請や江戸城普請にも奉行として参加した。清正の死後もその子・忠広に仕えたが、その無能を嘆き、没落を予言[2]。肥後国熊本藩が改易されると、清正の盟友であった黒田長政に召し抱えられ、福岡赤坂の屋敷跡にはゆかりの大銀杏が残る。
長男・直国は熊本藩士、次男は福岡藩中老、三男・何右衛門は熊本藩士があり、いずれも子孫は明治以降まで続いた。直国の子孫に井上毅がいる。
脚注
編集- ^ 他は森本儀太夫と、庄林隼人(または三宅角左衛門)。
- ^ 通俗教育研究会 1911, p.125-126
出典
編集- 通俗教育研究会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 飯田覚兵衛「一生主計頭どのにだまされたり」」『逸話文庫 : 通俗教育 武士の巻』大倉書店、1911年 。
登場作品
編集- 『覚兵衛物語』- 司馬遼太郎, 新潮文庫・『俺は権現』(ISBN 4-06-131806-3)収録
- 『加藤清正』- 海音寺潮五郎