頼杏坪
頼 杏坪(らい きょうへい、宝暦6年(1756年)7月 - 天保5年7月23日(1834年8月27日))は、江戸時代の儒学者、広島藩士。諱は惟柔(ただなご)、字は千祺(せんき)・季立、号は春草堂、通称は万四郎、別号に春草・杏翁。
略伝
編集宝暦6年(1756年)7月、父の頼惟清(亨翁)と母の仲子(道工氏)の四男として竹原に生まれる。通称は万四郎。長兄が頼春水、次兄と五弟が死亡し、三兄が頼春風。頼山陽は兄の春水の子で、杏坪は叔父に当たる。
杏坪は7歳のとき母に死別し、父と兄に育てられた。家は商家で、父は学問好きであった。25歳のときに大坂に出て儒学を学び、その後兄の春水と共に江戸にも出て服部栗斎に師事した。30歳で広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)の儒官に迎えられ、天明5年(1785年)広島藩主の子の浅野斉賢の教育係となった。
春水・春風・杏坪の頼三兄弟は、とみに文才に恵まれた儒者であり、多くの優れた漢詩を残すなど、レベルの高い共通点を持ち合わせると共に、個性を生かしてそれぞれの分野で後世に名を残した。杏坪が二人の兄と異なるのは、地方行政官として歩んだ足跡である。しかも、普通の人なら隠居する50代半ばを過ぎてから、郡代官や三次町奉行として藩政の一端に加わった。
杏坪が三次郡・恵蘇郡の代官になったのは文化10年(1813年)10月で、58歳のときだった。その後、三上郡・奴可郡を加えた備後国北部4郡(現在の三次市・庄原市、双三郡・比婆郡)の代官を歴任、備北各地の村々を歩いて農民の声を聞き、政治に反映しようと努めた。当時、備北地方は百姓一揆伝統の地と言われた。飢餓に備えて柿を植えたり、神社に老人を集めて敬老会を催したなどの話はよく知られている。
文政11年(1828年)、杏坪は三次町奉行に任じられ、4月、家族をあげて三次に転居してきた。このときすでに73歳で、三次に在任したのはわずか2年であった。文政12年(1829年)2月には京都から甥の頼山陽が三次にある杏坪の役宅運甓居を訪れ、漢詩を残している。
文政13年(1830年)閏3月、杏坪は三次町奉行を辞して広島に引き上げた。天保5年(1834年)79歳で病没、比治山の安養院(現在の多聞院)に葬られた。嫡子は頼采真(舜燾)。
脚注
編集- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.26
出典
編集- 中村真一郎著『頼山陽とその時代』 中央公論社 、1971年
- コトバンク - 頼杏坪とは