雁門郡(鴈門郡、がんもん-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から唐代にかけて、現在の山西省北部に設置された。

概要

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秦のとき雁門郡が立てられた。

前漢の雁門郡は并州に属し、善無沃陽繁畤中陵陰館楼煩武州汪陶劇陽平城馬邑疆陰の14県を管轄した。王莽のとき、填狄郡と改称された[1]

後漢が建てられると、雁門郡の称にもどされた。後漢の雁門郡は陰館・繁畤・楼煩・武州・汪陶・劇陽・崞・平城・埒・馬邑・鹵城広武原平・疆陰の14県を管轄した[2]

のとき、雁門郡は広武・崞・汪陶・平城・葰人・繁畤・原平・馬邑の8県を管轄した[3]

北魏のとき、雁門郡は肆州に属し、原平・広武の2県を管轄した[4]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、雁門郡は廃止されて、肆州に編入された。585年(開皇5年)、代州と改称された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、代州は雁門郡と改称された。雁門郡は雁門繁畤五台霊丘の5県を管轄した[5]

618年武徳元年)、唐により雁門郡は代州と改められた。742年天宝元年)、代州は雁門郡と改称された。758年乾元元年)、雁門郡は代州と改称され、雁門郡の呼称は姿を消した[6]

脚注

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  1. ^ 漢書』地理志下
  2. ^ 後漢書』郡国志五
  3. ^ 晋書』地理志上
  4. ^ 魏書』地形志二上
  5. ^ 隋書』地理志中
  6. ^ 旧唐書』地理志二