陽翟県
歴史
編集伝承では禹が夏を建てた時に都(夏邑)としたとされる[1]。周の襄王の代、翟人が侵攻してきたため「陽翟」の名がついたとされる。紀元前408年、韓の景侯は都を宜陽から陽翟に移した[1]。哀侯の代の紀元前375年に韓の都は新鄭に移されたが、以後も陽翟は韓の重要な商業都市であり続け、呂不韋がこの地で商いを行っていたこともある。秦代は潁川郡に属し、その郡治となった。539年(興和元年)、東魏により陽翟県に陽翟郡が置かれた[1]。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、陽翟郡は廃止された。
1369年(洪武2年)、明により陽翟県は廃止され、鈞州に編入された。1575年(万暦3年)、万暦帝朱翊鈞の諱を避けるために鈞州は禹州と改称された。
出典
編集- ^ a b c (中国語)『『元和郡県図志』巻五 河南道一』。ウィキソースより閲覧。