阿部泰蔵
阿部 泰蔵(あべ たいぞう、嘉永2年4月27日(1849年5月19日) - 大正13年(1924年)10月22日)は、幕末 - 明治期の武士、実業家、官僚。日本初の生命保険会社明治生命保険(現明治安田生命保険)の創立者(初代頭取、初代会長)として知られる。従五位勲四等旭日小綬章。
経歴
編集三河国吉田藩(維新後豊橋藩)の藩医豊田鉉剛の三男として生まれ[1][2]、のち同藩の阿部三圭の養子となる。儒学者を目指し漢詩を小野湖山に、橋本一斎に蘭学を学んだ後藩命を受けて江戸に上り、開成所教授・杉田玄瑞、穂積清軒、中島三郎助に蘭学を学んだ。1868年(慶応4年)に鉄砲洲の慶應義塾に入学するが、戊辰戦争に際して藩命により帰藩し、各地に転戦。戦争後、再度入塾して歴史会読、窮理書素読などの科目教員を担当した。以来、慶應義塾読書院のメンバー、交詢社役員『交詢雑誌』の編纂に関わる。
1870年(明治3年)に太政官から大学出仕の命を受け、大学南校教授を経て文部省少教授から編集権助・六等出仕となり、訳書『修身論』が文部省の教科書に採用される。統計学を考究する「製表社」の結成に参加し、麻布区会副議長に選ばれる。1881年(明治14年)に明治生命保険会社(現・明治安田生命保険)設立願いを東京府に提出し、許可される。次いで東京商業会議所特別会員、東京倉庫(現・三菱倉庫)取締役、第三十三国立銀行跡引受人、火災保険会会務に就任。1893年(明治26年)に文部省より高等商業学校商議委員嘱託。
1893年(明治26年)、伊藤内閣より法典調査会査定委員に任命、商法施行により定款を改正する。1897年(明治30年)の第2次松方内閣でも法典調査会委員に任命され、保険法を起草した。1902年(明治35年)司法省より破産管財人を命じられ、1907年(明治40年)の西園寺内閣でも法律取調委員となり、司法官僚としても活躍した。
他、丸善商社取締役、東京統計協会特別会員、生命保険会社協会評議員会会長、日本郵船会社監査役、簡保反対同盟会組織会長、社団法人生命保険会社協会初代理事会会長、東京海上保険会社取締役などを歴任した。四男の章蔵(水上滝太郎)が留学中に、宴席で昏倒する[3]。帰国した章蔵が明治生命に入社した翌年の1916年、会長職を退き、隠居状態となる(平の取締役に留まる)。1919年、箱根の温泉で入浴中、積雪でガラスが砕ける事故があり、大腿部を負傷。以後病床にあり、1924年10月、白金三光町の自宅で逝去。享年76。墓所は多磨霊園。
オハイオ州立大学内の保険殿堂(Insurance Hall of Fame)には、日本における保険普及の業績評価から、阿部の肖像画が飾られている。
家族
編集- 後妻・優子(文久2年生まれ) - 山形県士族・俣野景明の長女[4]。父・景明は福沢諭吉の門下[5]。
- 長男・圭一(明治5年生まれ) - 先妻との子[5]。東京高等工業学校卒業後、米国留学し、三菱造船所重役[4][6]。妻・松子は秀英舎(現・大日本印刷)重役の秀島家良の次女[6][7]。長男・一蔵は京都帝大経済科卒業後資産家となり(妻・美代子は公爵西園寺八郎の三女)、次男・清二は伯爵山本清の養子に、長女・千代は山本直光(山本直良次男)に嫁ぐ[6]。
- 次男・泰二(明治13年生まれ) - 東京帝国大学法科大学政治科卒業後、日本銀行勤務を経て帝国燃料理事となり、三菱石炭油化工業などの重役を務める[4]。妻・玉枝は古川宣誉の四女[4]。長女・櫻子は川喜田俊二(実業家川喜田半泥子次男)妻、二女・桃子は山岸成一(帝国コークス社長で麒麟麦酒重役の山岸慶之助長男)妻[8][9]。
- 長女・こう子(明治17年生まれ) - 安川電機初代社長・安川清三郎(男爵安川敬一郎三男)妻[4]。
- 四男・章蔵(明治20年生まれ) - 慶應義塾大学卒業後、明治生命保険社員との傍ら、水上滝太郎の筆名で作家活動。
- 二女・隆子(明治23年生まれ) - 陸軍中佐・磯辺民弥(海軍少将磯辺包義長男、磯辺弥一郎の甥)妻[4][10]。
- 五男・舜吾(明治25年生まれ) - 慶應義塾大学卒業後、横浜正金銀行、東京銀行勤務[11]。
- 三女・とみ(明治28年生まれ) - 香蘭女学校卒業後、小泉信三妻[4]。
- 四女・八重(明治30年生まれ) - 日比谷平吉(紡績実業家日比谷平左衛門四男で日比谷銀行・日比谷商店重役)妻[4][12]。
- 六男・大六(明治32年生まれ) - 慶應義塾大学法科卒業後、東邦電力勤務を経て、中部配電重役[13]。
- 七男・英児(明治32年生まれ) - 慶應義塾大学法科卒業後、大日本製糖勤務を経て同社取締役[6]。
- 八男・芳郎(明治34年生まれ) - 慶應義塾大学政治学科卒業後、王子製紙勤務[14]。妻・喜美子は製紙王藤原銀次郎の養女[6]。
- 九男・秀助(明治35年生まれ) - 慶應義塾大学卒業後、東京海上火災保険、神島工業勤務を経て神島化工商事、協立有機工業研究所取締役[15]。妻・才子は子爵栗野慎一郎長女[6]
栄典
編集脚注
編集- ^ 時事新報社第三回調査全国五拾万円以上資産家時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)、神戸大学新聞記事文庫
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 46頁。
- ^ 『貝殻追放. 第1-3』p17水上滝太郎、東光閣書店、大正9-14
- ^ a b c d e f g h 阿部泰藏、阿部泰二『人事興信録. 6版』(人事興信所, 1921)
- ^ a b 俣野景明歴史が眠る多磨霊園
- ^ a b c d e f 阿部一蔵、阿部英児
- ^ 秀島家良(読み)ひでしま いえよしコトバンク
- ^ 阿部泰二『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』 (人事興信所, 1941)
- ^ 山岸慶之助『人事興信録. 第13版(昭和16年) 下』 (人事興信所, 1941)
- ^ 小林倫幸「本間喜一の妻・登亀子の家系図について」『同文書院記念報』第24巻、愛知大学東亜同文書院大学記念センタ、2016年3月、191-193頁、ISSN 2188-7950。
- ^ 阿部舜吾『人事興信録. 第15版 上』 (人事興信所, 1948)
- ^ [1]『人事興信録. 6版』(人事興信所, 1921)
- ^ 阿部大六『人事興信録. 第15版 上』 (人事興信所, 1948)
- ^ 阿部芳郎『人事興信録. 第13版(昭和16年) 上』 (人事興信所, 1941)
- ^ 工藤雷介 (1965年12月1日). “七段 阿部秀助”. 柔道名鑑、69頁 (柔道名鑑刊行会)
参考文献
編集- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、725-726頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 阿部 泰蔵 Bibliographical Database of Keio Economists