阿蘇惟光
阿蘇 惟光(あそ これみつ)は、安土桃山時代の肥後国の大名。阿蘇神社大宮司。
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 天正10年(1582年) |
死没 | 文禄2年8月18日(1593年9月13日) |
別名 | 長松丸 |
墓所 | 阿弥陀寺(熊本市) |
氏族 | 阿蘇氏 |
父母 | 父:阿蘇惟種 |
兄弟 | 惟光、惟善 |
生涯
編集天正12年(1584年)、父・惟種の死により、幼年ながら2歳で当主となった。
天正13年(1585年)7月3日、甲斐宗運が死去。薩摩国の島津氏の侵攻を受けて、8月12日、花山城陥落。8月末、堅志田城、木山城陥落。阿蘇家において初めて降伏し、八代荘厳寺の僧侶を島津氏に派遣。しかし、島津氏は和睦を拒否。同年9月に甲斐宗運の家臣が次々と処刑される。母親に連れられて弟・惟善と共に目丸山に逃亡した(目丸落ち)。豊臣秀吉による九州平定が始まると保護を求めた。惟光は佐々成政に預けられた。
天正15年(1587年)6月25日、豊臣秀吉により、わずかながら肥後国矢部三百町が与えられる(『九州治乱記』)。
同年7月、肥後国人一揆が勃発すると、秀吉が惟光の処刑を求める。だが、このとき惟光は熊本城内にいたので、関与していないことは明白とされ、不問とされた(『小早川秀明文書:十二月十七日』)。一揆の責任を問われた佐々成政が処刑されてしまい、惟光は加藤清正に預けられることになった。このとき惟光は6歳であった。
文禄元年(1593年)6月に梅北一揆が起こると、島津歳久や梅北国兼らとの結託を疑われ、秀吉によって切腹を命じられる。
同年、8月18日、惟光は花岡山で切腹した[1]。享年12。これは加藤清正の朝鮮出兵中の留守を狙ったものであった。
後に惟光の弟・阿蘇惟善が、加藤清正に召し出され大宮司職に復帰した。
脚注
編集- ^ 熊本県公式観光サイト「もっと、もーっと!くまもっと」ふるさと寺子屋No.148「花岡山を学ぶ」
出典
編集関連項目
編集- 花の慶次 - 作品内に登場するキャラクター・水沢隆広のモデルとなった