阮瑀
阮 瑀(げん う、2世紀? - 212年)は、中国三国時代の文学家。字は元瑜。兗州陳留郡尉氏県の人。建安七子の一人。子の阮籍・孫の阮咸はともに竹林七賢である。
生涯
編集幼い頃蔡邕に学び、蔡邕より奇才と呼ばれていた[1]。その文才を聞いた曹洪が招聘を試みたが、阮瑀は応じなかった。のちに曹操によって司空軍謀祭酒に任じられ、陳琳や路粋らとともに典記室となった[2]。曹操が発する檄文の多くは阮瑀や陳琳の筆によるものであった。後に丞相倉曹掾屬に転じた[3]。
曹丕が五官中郎将に任じられた頃、曹植や劉楨[4]・孔融を除く建安七子らと交流を深めた[5]。212年(建安17年)に死去した[6]。
逸話
編集評価
編集総じて文章を得意とし、詩はやや劣っていた、と書かれる。
作品
編集唐までは『阮瑀集』5巻が書庫に保管されていたと記される[13]が、のちの詳細は不明である。明の張溥が、当時に残る作品を収集し、『阮元瑜集』を編纂した。
家系
編集継子 | |||||||||||||||||||||||
阮瑀 | |||||||||||||||||||||||
阮熙 | 阮籍 | ||||||||||||||||||||||
阮咸 | 阮渾 | ||||||||||||||||||||||
阮瞻 | 阮孚 | ||||||||||||||||||||||
阮広 | |||||||||||||||||||||||
脚注
編集- ^ 『太平御覧』巻385(『文士傳』)「阮瑀少有俊才,應機捷麗,就蔡邕學,嘆曰:『童子奇才,朗朗無雙。』」
- ^ 『三国志』巻21注(『典略』)「粹字文蔚,少學於蔡邕。初平中,隨車駕至三輔。建安初,以高才與京兆嚴像擢拜尚書郎。像以兼有文武,出為揚州刺史。粹後為軍謀祭酒,與陳琳、 阮瑀等典記室。」
- ^ 『三国志』巻21「瑀少受學於蔡邕。建安中都護曹洪欲使掌書記,瑀終不為屈。太祖並以琳、瑀為司空軍謀祭酒,管記室,軍國書檄,多琳、瑀所作也。琳徙門下督,瑀為倉曹掾屬。」
- ^ 『後漢書』巻80下注(『魏志』)「楨,字公幹,為司空軍謀祭酒,五官郎將文學,與徐幹、陳琳、阮瑀、應瑒俱以章知名,轉為平原侯庶子。」
- ^ 『三国志』巻21「始文帝為五官將,及平原侯植皆好文學。粲與北海徐幹字偉長、廣陵陳琳字孔璋、陳留阮瑀字元瑜、汝南應瑒字德璉、東平劉楨字公幹並見友善。」
- ^ 『三国志』巻21「瑀以十七年卒。」
- ^ 『三国志』巻21注(『文士傳』)「太祖雅聞瑀名,辟之,不應,連見偪促,乃逃入山中。太祖使人焚山,得瑀,送至,召入。……臣松之案魚氏典略、摯虞文章志並云瑀建安初辭疾避役,不為曹洪屈。得太祖召,即投杖而起。不得有逃入山中,焚之乃出之事也。」
- ^ 『三国志』巻21注(『典略』)「太祖嘗使瑀作書與韓遂,時太祖適近出,瑀隨從,因於馬上具草,書成呈之。太祖擥筆欲有所定,而竟不能增損。」
- ^ 『文心雕龍』巻5「章表」
- ^ 『文選』巻42 魏文帝「與呉質書」
- ^ 『全三国文』巻8「典論」
- ^ 『詩品』巻下 下品
- ^ 『隋書』巻35 典籍4「後漢丞相倉曹屬阮瑀集五巻/梁有録一巻、亡」、『旧唐書』巻47 経籍下「阮瑀集五巻」、『新唐書』巻60 芸文4「阮瑀集五巻」