間宮純一

日本の将棋棋士(1908−1981)

間宮 純一(まみや じゅんいち、1908年明治41年)8月25日[3] - 1981年昭和56年)11月19日[3][4])は、将棋棋士[3][5][6]溝呂木光治八段門下[3]間宮 久夢斎[3][7][8][9][10](きゅうむさい[7][6])とも称した。入玉狙いという特異な棋風放浪癖から、将棋界きっての奇人変人[3][5][6][7][8][9][11][12]として知られた。

 間宮 純一 六段
名前 間宮 純一
生年月日 (1908-08-25) 1908年8月25日
没年月日 (1981-11-19) 1981年11月19日(73歳没)
プロ入り年月日 1941年
引退年月日 1957年(48歳)
(退会日 1959年6月1日[1][2])
出身地 静岡県田方郡大仁町
所属 将棋大成会(関東)
日本将棋連盟(関東)
師匠 溝呂木光治八段
段位 六段
順位戦最高クラス C級1組
2023年1月7日現在
テンプレートを表示

生涯

編集

静岡県田方郡大仁町[3](後の伊豆の国市大仁)出身。裕福な家系(後述)に生まれ、経済的に恵まれた環境で幼少期を過ごした[6]

中等学校を四年次で中退して溝呂木光治の弟子となり[5]1923年に初段[5]となった。18歳のときには溝呂木の内弟子となった[13]。内弟子となって4年ほどで三段まで昇段したが、ここからなかなか四段に上がれず苦しんだ[6][13]。23歳の時に内弟子を辞めて独立し、各地を放浪するようになる[13]。一時は将棋大成会(後の日本将棋連盟)にも顔を出さなくなったが[13]、やがて復帰し、1941年にようやく四段に昇段した[13]

1946年第1期順位戦C級で参加した[3]1947年に五段[3]1948年には順位戦C級1組・六段となった[3]1955年第9期順位戦でC級2組へ降級し[3]1957年には第11期順位戦でC級2組からも降級となり[14]引退した[3]

引退後の1959年6月1日に日本将棋連盟を退会した[1][2]放浪癖に伴う金銭的なトラブル(後述)で周囲に迷惑を掛けた[3][6]ため、将棋連盟から強い退会勧告を受けての自主退会であったとされる[15]

日本将棋連盟を退会した頃にはアルコール依存症となっており[6]、その後は実弟の世話を受けた[6]。最晩年は山梨県身延町老人ホーム「功徳会」に入所し[4][6]、アマチュアへの将棋指導の傍ら俳句を作るなどして暮らしていた[4]。1981年11月19日に老衰のため死去した[3][4]

昇段履歴

編集
第2期順位戦C級東組

加藤博二 - △間宮純一[16]

134手目△7七と まで
(この後、148手で後手勝ち[16]

△間宮 持駒 桂歩
987654321 
      
       
    
   
       
  
  
        
       
  • 1923年 初段[5][17]
  • 1941年 四段[13]
  • 1947年 五段[3]
  • 1948年 六段(順位戦C級1組)[3]
  • 1957年 引退[3]
  • 1959年 退会[1][2]

棋風

編集

最も安全な玉将の居場所は敵陣であり[3][7][10][11]入玉してしまえば負けることはない[3]との考えから、玉将を三段目まで上げて常に入玉を目指す独自の戦法「久夢流」を愛用した[3][5][7][6][9][10][11][16][18]。戦法名の「久夢流」と雅号の「久夢斎」は、なかなか四段に上がれずにいた頃に「四段昇段は久しい夢」だと感じたことから名付けたという[6][19]

升田幸三は1967年の書籍で間宮の久夢流について触れ、「勝率はそれほどでもなかったが、古今に類のない考え方の将棋であり、いま思えば珍重されるべきであったろう」[18]と評価している。

原田泰夫は1999年の書籍で、間宮と自身の第1期順位戦での対局を回想して「弱い相手ならともかく、互角ぐらいだとそう簡単には入玉できません」[3]「無理やり入ろうっていうんだからスキが生じる」[3]と述べ、久夢流は入玉にこだわり過ぎていてあまり有効ではなかったと指摘している。

広津久雄は、2006年の静岡新聞の連載で「敵陣が安全な場所だといって、三段目まで玉を上がる発想はユニークだが、無理なところがある」[19]と評した。また広津は、奨励会での間宮がその特異な棋風を他の奨励会員に覚えられて苦戦していたことを証言している[19]

人物

編集

家族

編集

実業家の間宮勝三郎の孫[6]で発明家の間宮精一の甥[6]に当たり、父は勝三郎の養子[6]である。純一は長男で、弟が二人いた[6]。上の弟は出征してガダルカナル島の戦いで戦死し[6]、純一の老後の世話をしていたのは下の弟である[6]

将棋世界1956年6月号特別付録の「現代棋士名鑑」[17]いわき民報の1957年の記事[8]には「独身」とあり、東公平は生涯独身であったとも述べている[11]。ただし1948年3月に出版された『現代棋士名鑑:次の名人は誰?』[5]には、妻と二人暮らしだとの記述がある。1953年村松喬が書いた「奇人久夢斎先生行状記」という文章によると、間宮は第二次世界大戦中に結婚したが、家庭よりも将棋を選んで離婚したという[7]

棋士としての系譜

編集

小野五平十二世名人の系譜[11](師匠である溝呂木のさらに師匠が小野[20])だが、間宮に弟子はおらず[11]、間宮の代で系譜が途絶えた形となっている[11]

放浪と奇行

編集

浪花節放浪を好み[3][6][9][11][12]、「西洋コジキのよう」[9]とも形容された薄汚い身なりをして[6][9]、日本全国の将棋愛好家を訪ねて旅していた[3][6][12]。そして無賃乗車[6][12]無銭飲食[6]、無銭宿泊[6][11]、関係者の家に押し掛けて金銭や酒を執拗にねだる[3][12][15]などの奇行を方々で繰り返していた[6][15]。こうしたトラブルのために日本将棋連盟を退会せざるを得なくなったとされる[15]

金高清吉清野静男との三人で「三奇人」とよばれた[12][21]

出典

編集
  1. ^ a b c 「間宮純一六段が退会」『将棋世界』第23巻第8号、日本将棋連盟、1959年8月、124頁。 
  2. ^ a b c 日本将棋連盟調査室編「近代将棋史年表 (十一) 大山、三冠を奪還 昭和三十三年~三十五年」『将棋世界』第45巻第9号、日本将棋連盟、1981年9月、61頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 加藤治郎原田泰夫田辺忠幸「元祖入玉流?間宮久夢斎」『証言 昭和将棋史』毎日コミュニケーションズ、1999年、174-176頁。ISBN 4-8399-0255-0 
  4. ^ a b c d 「久夢流家元 間宮純一六段永眠」『将棋世界』第46巻第1号、日本将棋連盟、1982年1月、121頁。 
  5. ^ a b c d e f g 将棋大成会出版部 編「五段 間宮純一」『現代棋士名鑑:次の名人は誰?』将棋新聞社、1948年3月22日、41頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 湯川博士「人生、短夜のごとし」『将棋巷談・一手劇場』毎日コミュニケーションズ、1993年、148-151頁。ISBN 4-89563-579-1 (間宮純一の実弟にインタビューした記事。初出は『週刊将棋』1985年8月21日号。)
  7. ^ a b c d e f 村松喬「奇人・久夢斎先生 行状記」『小説公園』第4巻第2号、六興出版、1953年2月1日、130-136頁、doi:10.11501/11005106 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  8. ^ a b c “将棋と酒だけが生きる道 放浪の間宮六段来湯 名刺はタバコの空箱 奇人で有名” (PDF). いわき民報第3413号: p. 3. (1957年7月4日). https://library.city.iwaki.fukushima.jp/manage/archive/upload/00000_20130118_3516.pdf 2019年10月22日閲覧。 いわき市立図書館郷土資料のページにてインターネット公開)
  9. ^ a b c d e f 藤沢桓夫「変人奇人」『大阪の人』光風社書店、1974年(当該随筆の初出は1955年)、162-165頁。doi:10.11501/12482643 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  10. ^ a b c 東公平「安全地帯、それは敵陣」『升田式石田流の時代』河出書房新社、2000年、31頁。ISBN 4-309-72265-2 第21期A級順位戦、1966年7月14日の二上達也-山田道美戦の観戦記の一節。先手の二上が入玉したことから、入玉を好んだ間宮について言及している。初出は朝日新聞1966年8月20日(土)朝刊12面。)
  11. ^ a b c d e f g h i 東公平「第6回富士通杯達人戦 受けなしまで指した大内のサービス精神」『週刊朝日』第103巻29号(通巻4270号)、朝日新聞出版、1998年7月3日、126-127頁。 (第6回富士通杯達人戦第1回戦第2局、田中寅彦-大内延介戦の観戦記。後手の大内が玉将を三段目に上げたところから、間宮の棋風や言動について言及している。)
  12. ^ a b c d e f 芹沢博文「酒好き奇人の大先生」『芹沢九段の将棋界うら話 指しつ刺されつ』リイド社、1987年5月、32-34頁。ISBN 4-947538-63-5 
  13. ^ a b c d e f 四段 間宮純一「下積生活二十年」『将棋世界』第5巻第10号、将棋大成会、1941年10月、26-27頁。 国立国会図書館デジタルコレクション国立国会図書館内限定公開)
  14. ^ 山本武雄『将棋百年』時事通信社、1966年、320、321頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)
  15. ^ a b c d 加藤治郎、原田泰夫、田辺忠幸「連盟を守るためつらい決断」『証言 昭和将棋史』毎日コミュニケーションズ、1999年、177-179頁。ISBN 4-8399-0255-0 
  16. ^ a b c 「久夢流の模範局」『季刊将棋天国』通巻14号、将棋天国社、1980年7月10日、181-182頁。 
  17. ^ a b 「特別附録 現代棋士名鑑」『将棋世界』第20巻第6号、日本将棋連盟、1956年6月、153頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、国立国会図書館内限定公開)
  18. ^ a b 升田幸三「入玉に負けなし」『格言と手筋』弘文社、1967年12月、158-159頁。 
  19. ^ a b c 広津久雄 (2006年3月5日). “静岡将棋誌(382) 特異棋風の間宮さん 四段の夢 かなわず”. 静岡新聞日曜版: p. 7 
  20. ^ 棋士系統図”. 日本将棋連盟. 2019年7月24日閲覧。
  21. ^ 能智映『愉快痛快棋士365日』日本将棋連盟、1982年6月、9頁。 国立国会図書館デジタルコレクション、デジタル化資料送信サービス限定公開)