釧路鉄道
釧路鉄道(くしろてつどう)は、北海道東部の硫黄山で産出される硫黄の輸送を目的とした鉄道路線を運営した企業である。硫黄鉱山の専用鉄道として建設された路線を継承し、北海道内では2番目(北海道の私鉄では最初)の鉄道事業者となった。鉱山を経営していた安田財閥によって建設・運営されたが、鉱山を保有した原因であった山田銀行(本店・函館)への貸し付け分が回収され、安田財閥としての硫黄の採掘が中止されたため、開通から10年足らずで事実上廃止となった。
釧路鉄道 | |
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進善号 北海道官設鉄道4号時代 | |
概要 | |
現況 | 廃止 |
起終点 |
起点:標茶 終点:跡佐登 |
運営 | |
開業 | 1892年9月8日 |
休止 | 1896年8月1日 |
運営者 | 釧路鉄道 |
使用車両 | 車両の節を参照 |
路線諸元 | |
軌間 | 1,067 mm (3 ft 6 in) |
停車場・施設・接続路線 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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短期間で廃止となった硫黄鉱山の鉄道であったが、安田財閥の強固な財務基盤は釧路の硫黄鉱山によってなされたとも言われている[誰によって?]。硫黄鉱山の開発によって釧路の石炭産業(現:太平洋炭鉱)、釧路港、根室銀行(後:安田銀行、現:みずほ銀行)開設と釧路地域開発のきっかけとなった。1921年(大正10年)の釧路開港35周年に安田善次郎は、功績により釧路区(現:釧路市)から表彰されている。
歴史
編集1872年(明治5年)に、佐野孫右衛門によりアトサヌプリ山麓の硫黄山で硫黄採掘が始まり、1886年(明治19年)に、北海道開拓使の方針に基づき、前年に開設された釧路集治監の囚人使役により開始された[1]。佐野孫右衛門が亡き後は函館の山田銀行に譲渡され、さらに1887年(明治20年)に融資を受けていた安田善次郎に譲渡された。当時の運搬は当初は仁多(弟子屈)まで馬搬、仁多より川船を乗り継いで釧路まで下ったが、後に標茶まで馬搬になり、標茶から湧比別(後の五十石)まで50石船で、湧比別から釧路は100石船で運搬した。
標茶に大規模な精錬所が建設され、1887年(明治20年)4月より輸送のために硫黄鉱山専用鉄道の敷設が釧網本線標茶駅付近から跡佐登の24マイル余りの区間で開始され、同年12月に開通した[2][3]。この建設も囚人使役で行われ、現在のような重機もない状況で、僅か7か月で建設している。さらにその後1889年(明治22年)に2マイル余り延長し、後年の釧路鉄道開業時と同じ総延長約43.2km(26マイル67チェーン)に達した[4]。
また、標茶から釧路港まで釧路川の24キロメートルを浚渫し、前述の50石や100石船を小型蒸気船[5]で牽引して積出港の釧路港まで輸送した。標茶から釧路港まで線路を敷設しなかったのは、間に釧路湿原が広がり、技術的に難しかったことが主な理由である。
採掘高は7万5千石に達していたが、過酷な鉱山労働で死亡者が続出、逃亡を図る囚人が斬殺されるなどの惨状を知った集治監の教誨師・原胤昭が、典獄・大井上輝前に進言したことにより陰惨な事実が表面化。安田善次郎との契約を破棄、1888年に囚人を引き揚げ、鉱山は労働力確保に事欠く状況に陥っている。
その後、沿線に開拓民が増えたことから、無賃の一般旅客なども行うことになった。1891年(明治24年)に釧路鉄道(本社:東京日本橋の安田銀行本店。資本金20万円)が設立された。1892年(明治25年)内務省から鉄道布設免許状[6]と、補助金2万円を受けて同年9月8日から運営された[7]。
徐々に硫黄の自然湧出量と生産量とが合わなくなり、また旧山田銀行への貸付分が回収されたため山田銀行社主に硫黄鉱山を返還し、1896年(明治29年)7月28日に安田の鉱山としては休止した(その後硫黄鉱山は1931年に別資本により操業を再開し、戦中戦後の休止を挟んで1970年まで操業した)。硫黄鉱山の専用鉄道から私設鉄道に転換したとはいえ、運輸収入の大半は硫黄輸送が占め、開拓民による旅客輸送はごくわずかで、採算が取れなくなり、8月1日には休止届を提出し運行休止、事実上の廃線となった。1897年(明治30年)10月31日に、北海道鉄道敷設法の建設予定路線と重なることもあり、釧路鉄道と政府の間で19万9千円で買収契約締結し会社を解散した。
1929年(昭和4年)8月15日、休止から33年後に開業した釧網本線標茶駅 - 弟子屈駅(現・摩周駅)間25.3kmのうち16.8kmに路盤が転用されている。
年表
編集路線データ
編集レールはドイツ製のものを使用した。
駅一覧
編集硫黄運搬専用鉄道
編集標茶(しべちゃ) - 仁多(列車交換のための休泊場)- 跡佐登(あとさのぼり)
旅客扱い開始後
編集標茶 - 磯分内(いそぶんない) - ニタトロマップ - 美留和(びるわ) - ウノシコイチャルシベ - ポンチクワッカ(貨物駅) - 跡佐登[8]
ウノシコイチャルシベ - ヲンコチャル(貨物駅)[8]
運行形態
編集日本最初の月刊時刻表『汽車汽船旅行案内』(庚寅新誌社)の創刊号、1894年(明治27年)10月号によると、旅客列車は1日4往復が設定され所要時間は約2時間[9]。 全列車がニタトロマップ駅(本時刻表では「ニタトリマップ」と記載)で行き違いをおこなっていた。 運賃は全線で26銭となっている。
輸送・収支実績
編集年度 | 乗客(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 益金(円) |
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1892 | 1,284 | 9,733 | 4,475 | 4,105 | 370 |
1893 | 3,273 | 21,612 | 10,771 | 10,352 | 419 |
1894 | 4,206 | 23,639 | 11,870 | 10,442 | 1,428 |
1895 | 4,590 | 25,560 | 12,877 | 12,937 | ▲ 60 |
1896 | 2,089 | 8,361 | 4,895 | 7,698 | ▲ 2,803 |
- 「国有及私設鉄道運輸延哩程累年表」「国有及私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
車両
編集1887年アメリカ・ボールドウィン製の車軸配置0-6-0 (C) 形テンダー式蒸気機関車2両とイギリス製の貨車(一部は客車に改造)が輸入され使用された。日本に輸入されたのは二番目となる日本鉄道史で貴重な車両である。ちなみに釧路港1回目の輸入が、この車両になる。蒸気機関車の詳細は、「国鉄7000形蒸気機関車」を参照。
1896年時点の保有車両は、蒸機2、客車2、貨車24となっている。
脚注および参考文献
編集- ^ 町のなりたちは集治監から… 標茶町ウェブサイト
- ^ 官報 1888年03月28日 国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ 北海道鉄道百年史では敷設開始は前年1886年(明治19年)4月としている。
- ^ 北海道鉄道百年史 上巻 p88。
- ^ 第一釧路丸から第三釧路丸の3隻。
- ^ 「鉄道布設免許状下付」『官報』1892年6月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道運輸開業免許状下付」『官報』1892年9月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b c d 今尾 (2008)
- ^ 「全国汽車発着時刻表 標茶跡砂登間」『官報』1892年12月19日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』 1 北海道、新潮社、2008年、p. 43頁。ISBN 978-4-10-790019-7。
- 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、19頁頁。
- 『私鉄史ハンドブック 正誤表』(pdf)2010年2月 。
- 北海道鉄道百年史 上巻 1976年(昭和51年)日本国有鉄道北海道総局発行。
関連項目
編集外部リンク
編集- 廃止線区資料館(「釧路鉄道悲話」のページあり)
- 田本写真帳より左上写真 明治25年頃の釧路鉄道の軌道(函館市立中央図書館所蔵デジタルアーカイブ)。アトサヌプリの左にマクワンチサップの稜線が見えることからウノシコイチャルシベ付近からの撮影と思われる。(タイトルが標茶とあるが田本はこの硫黄山を標茶硫黄山と呼んでいる。)
- 『北海道鉱床調査報文』明治21年12月跡佐登硫黄鉱山略図 1891年(明治24年) 北海道庁第二部発行、国立国会図書館デジタルコレクション。図は右が北に当たる。左下分岐点がウノシコイチャルシベ停車場(北緯43度35分24.7秒 東経144度27分3.7秒 / 北緯43.590194度 東経144.451028度)、旧製錬所がヲンコチャル停車場(北緯43度36分0秒 東経144度26分26秒 / 北緯43.60000度 東経144.44056度)、図下端中央の長方形がポンチクワッカ停車場(北緯43度36分22秒 東経144度27分6.8秒 / 北緯43.60611度 東経144.451889度)、右端中央の長方形がアトサヌプリ停車場(北緯43度37分7.2秒 東経144度26分30.8秒 / 北緯43.618667度 東経144.441889度)(座標は概略)。
- 北海道測量舎五万分一地形図(手書き) 釧路国(5) - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー。跡佐登から弟子屈(ポンチクワッカとアトサヌプリの位置が逆)。美留和(北緯43度31分59秒 東経144度25分57.4秒 / 北緯43.53306度 東経144.432611度)?、ニタトロマップ(北緯43度28分6.4秒 東経144度28分41.5秒 / 北緯43.468444度 東経144.478194度)(座標は概略)。
- 北海道測量舎五万分一地形図(手書き) 釧路国(3) - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー。磯分内から標茶。磯分内(北緯43度23分16.3秒 東経144度32分35.9秒 / 北緯43.387861度 東経144.543306度)?、標茶(北緯43度18分14.7秒 東経144度36分29.3秒 / 北緯43.304083度 東経144.608139度)(座標は概略)。
- 熊牛原野区画図 明治39年初版昭和12年6版(ただし記入鉄道は釧路鉄道) 北海道庁 - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー。
- ビルワ原野区画図 明治33年初版昭和2年3版(ただし記入鉄道は釧路鉄道) 北海道庁 - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー。
- アトサヌプリ原野区画図 明治33年初版昭和12年6版(ただし記入鉄道は釧路鉄道) 北海道庁 - 北海道立図書館北方資料デジタル・ライブラリー。
- 通運便覧 1892年(明治25年)12月 薄木保吉編出版 国立国会図書館デジタルコレクション。時刻表。