金 億(きん おく、1896年11月30日 - 没年不明)は、朝鮮詩人言論人本貫は慶州、は岸曙、筆名は岸曙生、A.S。フランス象徴詩を翻訳紹介し、自らも新体詩理論を提唱して詩作を行った。朝鮮で最初の詩集『懊悩の舞蹈』は朝鮮の詩人達に強い影響を及ぼした。

金億
各種表記
ハングル 김억
漢字 金億
発音: キム・オク
日本語読み: きんおく
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略歴

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1896年11月30日、平安北道定州郡に5男の長男として生まれる。父は金基範、母は金俊。熙権と名づけられたが、後に億に改名した。1907年五山学校に入学し、1913年日本に渡日、慶應義塾の英文科に入学した。しかし、卒業はできず、中退した。金の詩作はこの頃から始まり、在東京朝鮮人留学生学友会の機関紙『学之光』に創刊から関わり、詩「離別」「夜半」「夜と私(밤과 나)」「私の小さい鳥よ(나의 적은 새야)」、論文「芸術的生活」「要求と悔恨(-와-)」を発表する。

1916年、五山学校で教鞭を執る。ここで、後に詩人となる金廷湜と出会い、彼の才能を見抜き、指導をすることになる。金は金廷湜が文壇に上がれるように取り計らったりもしている。また、崇徳学校でも教鞭を執っている。

本格的な文芸活動は、1918年から、『泰西文芸新報』に詩を投稿することで始まる。当誌にツルゲーネフの散文詩やポール・ヴェルレーヌの詩を翻訳紹介した。海外の詩文学から学んだ知識をまとめ発表した論文「詩形の音律と呼吸(-의-과-)」は、新体詩を模索する当時の詩人達に大きな影響を与えた。1920年、『廃墟』『創造』の同人となる。『廃墟』には「ヴェルレーヌ詩抄」を連載し、詩を翻訳紹介する。『創造』にはツルゲーネフをはじめとして多くの海外詩人を紹介した。こうした詩をまとめて、1921年広益書館から朝鮮で最初の詩集と言われる『懊悩の舞蹈(-의-)』を刊行する。1923年、創作詩集『クラゲの歌(해파리의 노래)』は朝鮮最初の近代詩集で、フランス象徴主義の詩と密接な関係を見せている。

また、金は朝鮮におけるエスペラントの研究・普及の先駆者であった。1916年に東京物理学校小坂狷二にエスペラントを学び[1]、朝鮮に戻って、その普及のために講習所を設立したりもした。『開闢』に「エスペラント自習室」を連載し、朝鮮で最初のエスペラント語の教科書『エスペラント短期講座』を刊行している。エスペランティストとしては筆名Verda E. Kimを名乗り、日本のLa Revuo Orienta誌に朝鮮文学の短編のエスペラント訳を掲載している[2]

解放後、朝鮮戦争によって被北し、その後の消息は不明である。死後は親日反民族行為者に認定された[3]

年譜

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脚注

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  1. ^ 柴田・後藤編「日本エスペラント運動人名事典」p.176
  2. ^ 「La Revuo Orienta」1930年1,2,4,9,11号
  3. ^ 06년 12월6일 이완용 등 친일반민족행위자 106명 명단 확정 공개” (朝鮮語). 한국일보 (2021年12月6日). 2022年7月25日閲覧。
  4. ^ 霞関会 編『現代朝鮮人名辞典 1962年版』世界ジャーナル社、1962年8月1日、274頁。NDLJP:2973328/197