野田 圭甫(のだ けいほ)は、大正時代に活躍したアマチュア将棋指し大道詰将棋及び鬼殺し戦法の生みの親とされる。六段。生没年などは不明である。

人物

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大道で将棋講義をする野田は、紋付の羽織袴姿で白いひげを蓄えた老人であったという[1]

野田が大道で将棋講義を始めた時期に関しては2つの意見がある。1つは、大正末関東大震災の後、東京の盛り場で大道詰将棋をはじめた[1]というものであり。もう1つは大正5年頃[2][3]とするものである。

野田の商売のやり方は、まず詰将棋を出題して客を集め、次に「土居関根もひとたまりもない」「鬼の坂田三吉もはだしで逃げ出す」などといって、途中まで鬼殺し(可章馬)戦法を講義する。鬼殺し戦法は途中で一旦不利になるような局面が存在するので、その所まで講義し「その後の応手はこの本を買ってください」ということで薄い定跡パンフレットを売るというものであった。

後には定跡講義よりも大道詰将棋の方が主となったという。

脚注

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  1. ^ a b 大道棋の歴史(1)(原典は『文芸朝日』昭和39年8月号)
  2. ^ 大道棋の歴史(2)(原典は『将棋世界』昭和44年6月号)
  3. ^ 大道棋の歴史(3)(原典は『将棋評論』昭和24年6月号)