郭李 建夫(クォリー・チェンフー、1969年3月24日 - )は、台湾中華民国)の桃園市平鎮区客家出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、野球指導者。

郭李 建夫
基本情報
国籍 中華民国の旗 中華民国台湾
出身地 桃園市平鎮区
生年月日 (1969-03-24) 1969年3月24日(55歳)
身長
体重
185 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1993年
初出場 NPB / 1993年5月20日
CPBL / 1999年3月16日
最終出場 NPB / 1998年
CPBL / 2003年9月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
国際大会
代表チーム チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ
五輪 1992年
郭李 建夫
各種表記
繁体字 郭李 建夫
拼音 Guōlǐ Jiànfū
注音符号 ㄍㄨㄛㄌㄧˇㄐㄧㄢˋㄈㄨ
和名表記: かくり たてお
発音転記: クォリー・ジェンフー
英語名 Kuo Lee Chien-Fu
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オリンピック
男子 野球
チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ
オリンピック
1992
アジア競技大会
1998

NPBでは「かくり たてお」の読みで登録名としていた。

経歴

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台湾の俊国ベアーズでプレーしていた1992年シーズン途中にバルセロナオリンピックチャイニーズタイペイ代表に選出された。準決勝の日本戦に投げ勝ち、銀メダル獲得に貢献。

1993年、親日家の父の影響もあり日本のプロ野球でプレーすることを望み、熾烈な争奪戦の結果阪神タイガースに入団。プロの実績がなくアマチュア選手に近い存在だったので、日本人の新人と同じような扱いで「年俸は低く抑えられるが成績不振でもしばらくは解雇されない」という条項が盛り込まれた。

同年はフレッシュオールスターゲームに出場した。7月26日のヤクルトスワローズ戦にて飯田哲也の放った強烈なピッチャーライナーが睾丸を直撃し、マウンド上で悶絶。その後患部がソフトボール大にまで腫れ上がり、7月29日に登録抹消された。この試合は巨人戦以外のナイターとしては珍しく民放で全国中継されており、その後もこの場面は珍プレーのネタとして頻繁に放送されていた。

入団当時、1軍登録できる外国人選手は2人までという規定があり、1軍の主力であり戦力として欠かせなかったジム・パチョレックトーマス・オマリー両外国人選手との併用に首脳陣は頭を悩ませていた。そのためマスコミは当時世間の話題だった国連平和維持活動(PKO)をもじり、パチョレック・郭李・オマリーの頭文字を取って「(阪神)PKO問題」と報じていたことがある[注 1]。初年度から本人は先発投手一本での起用を希望していたが、他の外国人選手との併用問題やチーム事情により先発・中継ぎ・抑えと便利屋のような扱いを受けており、これによって本人のモチベーションも下がり体重が増加してしまい、アマチュア時代の投球が影を潜めてしまった。

3年目に本格的に先発ローテーションに入ったものの、この年はチームの成績が低迷し、好投しても勝利投手になることは少なかった。4年目のシーズン初めは先発だったものの、ここでもチーム事情のため抑えに転向、一定の成果を上げる(この年のリリーフのみで成績は7勝5敗15セーブ防御率2.75だった)。それ以降は故障や起用問題の再燃で登板が激減。阪神には6年間在籍し、1998年限りで退団した。

退団後は台湾球界に復帰して中信ホエールズで5年間プレーしたのち、2003年限りで現役を引退した。

1998年12月に開催されたバンコクアジア競技大会の野球チャイニーズタイペイ代表に選出された。

2014年には地元台中市で開催された第1回21U野球ワールドカップチャイニーズタイペイ代表監督を務め、優勝に導いている[2]

2016年11月20日に台中インターコンチネンタル野球場で開催された「台湾OB選抜 VS 巨人OB選抜 チャリティー試合」では、11-6とリードしていた9回表に登板(捕手は呂明賜)も、雨天が響き1アウトも取れずに巨人に追いつかれて降板した(11-15で巨人OB選抜の勝利)。 また翌年6月14日には、埼玉西武ライオンズ戦(2回戦)で始球式に登場。見事にストライクを投げた。 甲子園での投球は98年以来だという右腕は、「緊張したけど、マウンドに立つと現役時代を思い出した。」と語った。そして試合前にはトークショーを開催。

2021年現在は、台湾の開南大学で野球部の監督をしている。[要出典]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1993 阪神 27 3 0 0 0 5 4 2 -- .556 225 51.1 49 2 27 2 1 48 4 0 24 21 3.68 1.48
1994 49 2 0 0 0 7 5 2 -- .583 369 86.0 75 3 38 6 3 70 5 0 32 30 3.14 1.31
1995 30 17 3 2 0 5 12 0 -- .294 501 115.0 103 12 64 5 4 92 8 0 48 43 3.37 1.45
1996 45 6 1 1 0 8 9 15 -- .471 451 104.1 90 11 48 7 3 81 10 0 47 42 3.62 1.32
1997 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 24 4.2 6 0 4 0 0 3 0 0 4 3 5.79 2.14
1998 11 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 69 13.2 14 2 13 2 0 5 1 0 9 7 4.61 1.98
1999 和信
中信
23 23 1 0 0 15 7 0 0 .682 635 152.2 125 2 55 0 7 134 14 0 60 49 2.89 1.18
2000 26 22 1 0 0 10 6 2 0 .625 570 131.2 114 0 68 0 5 107 4 0 52 35 2.39 1.38
2001 20 1 0 0 0 0 1 11 0 .000 105 26.2 20 0 5 1 1 25 3 0 10 7 2.36 0.94
2002 34 1 0 0 0 4 5 16 0 .444 221 54.1 41 1 20 1 2 54 3 0 23 14 2.32 1.12
2003 31 12 0 0 0 9 6 8 0 .600 418 94.1 94 4 36 4 3 95 3 0 44 32 3.05 1.38
NPB:6年 167 28 4 3 0 27 31 19 -- .466 1639 375.0 337 30 194 22 11 299 28 0 164 146 3.50 1.42
CPBL:5年 134 59 2 0 0 38 25 37 0 .603 1949 459.2 394 7 184 6 18 415 27 0 189 137 2.68 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 和信(和信ホエールズ)は、2002年に中信(中信ホエールズ)に球団名を変更

タイトル

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CPBL
  • 最多勝利:1回 (1999年)
  • 最優秀救援投手:1回 (2002年)

表彰

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NPB

記録

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NPB
  • 初登板:1993年5月20日、対中日ドラゴンズ7回戦(福井県営球場)、8回表に4番手で救援登板、1回無失点
  • 初奪三振:同上、8回表に中村武志から
  • 初先発:1993年5月26日、対横浜ベイスターズ10回戦(横浜スタジアム)、2回1/3を5失点で敗戦投手
  • 初勝利:1993年7月9日、対読売ジャイアンツ15回戦(阪神甲子園球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初セーブ:1993年7月13日、対中日ドラゴンズ13回戦(阪神甲子園球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初先発勝利:1995年5月27日、対横浜ベイスターズ6回戦(阪神甲子園球場)、6回2失点
  • 初完投勝利・初完封勝利:1995年6月21日、対横浜ベイスターズ11回戦(横浜スタジアム)

背番号

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  • 20 (1993年 - 1998年)
  • 25 (1999年 - 2003年)

代表歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 後にオマリーが一軍へ定着し、パチョレックと自身の争いとなった際には「PK合戦」と報じられた[1]

出典

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関連項目

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外部リンク

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