近衛 兼経(このえ かねつね) は、鎌倉時代前期の公卿関白太政大臣近衛家実の三男。官位従一位摂政、関白、太政大臣。藤氏長者近衛家4代当主。通称は岡屋関白(おかのや かんぱく)。母は表向きには権中納言源雅頼村上源氏)の女ということになっているが、実は兵部大輔藤原季定の娘。

 
近衛 兼経
天子摂関御影』近衛兼経(岡屋関白)
時代 鎌倉時代前期
生誕 承元4年(1210年
死没 正元元年5月4日1259年5月27日
別名 岡屋関白
墓所 京都府宇治市五ケ庄二子塚古墳前方部中腹
官位 従一位摂政関白太政大臣
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛家実
母:藤原季信または藤原季定の娘
兄弟 家通家輔兼経長子鷹司兼平
実静慈禅増忠聖兼聖実澄誉
正室:九条仁子九条道家の娘)
隆慶の娘
宰子基平信昭慈静衣笠経平室、近衛兼教
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経歴

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貞応元年(1222年)に元服正五位下侍従に任じられて昇殿禁色を許される。2年後に異母兄の左大臣・家通が急死したために後継者に立てられ、従三位権中納言となる。安貞元年(1227年)に内大臣寛喜3年(1231年)に右大臣嘉禎元年(1235年)に左大臣となる。嘉禎3年(1237年)、九条道家の娘・仁子を娶って長年不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られた。暦仁元年(1238年)に左大臣を辞すが引き続き摂政を務める。翌年には従一位に叙せられる。仁治元年(1240年)、四条天皇元服・加冠のための太政大臣に任じられ、元服の儀が終わる翌年まで務めた。

仁治3年(1242年)、四条天皇が崩御すると後嵯峨天皇の関白に転じるが、西園寺公経の圧力によって二条良実にその地位を譲った(仁治三年の政変)。後に義父と共に関東申次に就任する。道家が失脚すると兼経も巻き添えで関東申次を解任されるが、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で宝治元年(1247年)に後深草天皇の摂政に再任される。建長4年(1252年)、異母弟の鷹司兼平に摂政を譲り、正嘉元年(1257年)に出家して法名を真理(しんり)と号して余生を宇治岡屋荘で過ごした。

日記に『岡屋関白記』がある。

系譜

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尊卑分脈』(新訂増補国史大系)による。