辺韶
人物・逸話
編集辺韶は文章によって名を知られ、数百人に教授した。口先もまたうまかった。辺韶が昼寝をしていたところ、弟子がひそかに「辺孝先の太っちょは、読書をなまけて眠りたいだけだ」といって嘲笑した。辺韶はひそかにこれを聞いており、「辺は姓で、孝は字だ。太っちょなのは五経を入れる箱だ。眠りたいのは経典の事を考えているためだ。夢で周公に会うとは、孔子も認めていらっしゃることだ。師を嘲ってよいとは、どんな古典に書かれているのか」と答えた。嘲笑した者は大いに恥じ入った。
経歴
編集辺韶は宦官の曹騰の推挙によって昇進した[1]。143年(漢安2年)、辺韶は尚書侍郎として改暦を求める上書をおこない、官僚たちのあいだで議論がおこなわれた[2]。桓帝のとき、辺韶は臨潁侯国の相となった。洛陽に召還されて太中大夫の位を受け、東観で著作をつとめた。2回転任して北地太守となり、入朝して尚書令に任じられた。後に陳国の相となり、在官のまま死去した。
著作
編集かれによって著された詩・頌・碑・銘・書・策は合わせて15篇あった。また文集があった[3]。
脚注
編集伝記資料
編集- 『後漢書』巻80上 列伝第70上