趙 飛燕(ちょう ひえん)は、前漢成帝の皇后。元名を宜主と称した。

趙皇后
前漢の皇后
趙飛燕『歴朝名媛詩詞』より
在位 永始元年6月7日 - 綏和2年4月8日
前16年7月13日 - 前7年5月7日

全名 趙飛燕
趙宜主(元名)
死去 元寿2年(前1年)8月
配偶者 成帝
趙合徳
立后前身位 婕妤
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略歴

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正史である『漢書』での趙飛燕に関する記述は非常に簡単なものであるが、稗史においては美貌をもって記述されており、優れた容姿を表現する環肥燕瘦燕痩が示すのが趙飛燕である(環とは楊貴妃のこと、幼名・玉環による。つまり、豊満な楊貴妃に対し痩身の趙飛燕の意)。

その出生は卑賤であり、幼少時に長安にたどり着き、号を飛燕とし歌舞の研鑽を積み、元帝の娘である陽阿公主の家の歌妓となった。その美貌が成帝の目にとまり後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛を受け、さらに妹の趙合徳昭儀として入宮されることも実現している。成帝は趙飛燕を皇后とすることを計画する。太后の強い反対を受けるが、鴻嘉3年(前18年)に許皇后を廃立し、永始元年(前16年)に立后が実現した。

綏和2年(前7年)、成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死したことによりその死因に疑問の声が上がり、妹の趙合徳が自殺に追い込まれている。こうした危機を迎えた趙飛燕であるが、自らの子がなかったため哀帝の即位を支持、これにより哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。しかし元寿2年(前1年)に哀帝が崩御し平帝が即位すると、支持基盤を失った趙飛燕は、王莽により宗室を乱したと断罪され、皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、さらに庶人に落とされ、間もなく自殺した。

備考

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妹の趙昭儀が成帝の他の妃が生んだ複数の男子を殺めたとされる。後世に「燕啄皇孫(ツバメが皇孫をついばむ)」と呼ばれている。そう呼ぶ理由は、姉の方が有名である。しかし実際には趙飛燕が関与しているという記録はない。哀帝の時代に、大臣たちが趙昭儀を批判するものであるが、飛燕について言及もされていない。妹との連帯責任以外はあまり問えないと評されることが多い。