中平5年(188年)6月[2]、益州の綿竹県で馬相・趙祇らが蜂起。刺史の郤倹を殺害し、馬相は自らを天子と称した。同州の従事の官にあった賈龍は、官民を集めてこれを討伐。馬相を敗走させ、益州に平穏を取り戻す(馬相の乱)。その後、州牧として劉焉を迎え入れ、賈龍は校尉の官に移った。
しかし次第に劉焉は独立の意志を露わにし、初平2年(191年)には州内の豪族十余人を殺害。賈龍は犍為太守の任岐と共に劉焉の討伐を図ったが、返り討ちに遭い、敗死を遂げた[3]。
- ^ 日本語読みはちくま学芸文庫『正史 三国志 5 蜀書』p.14より。
- ^ 司馬光『資治通鑑』巻59 漢紀51
- ^ 『資治通鑑』巻60 漢紀52より。なお、『三国志』劉焉伝注『英雄記』では、賈龍と任岐は別行動だったとする。同書によると、賈龍は董卓の援軍と説得を受けて劉焉を攻撃したが、劉焉に加担した羌軍によって撃退されている。