豆千代
経歴
編集明治45年(1912年)、岐阜県武儀郡富之保村(現・関市)で生まれる。芸人にするために幼少から三味線・長唄を仕込まれ、小学校へ入学後は日本舞踊・義太夫・常盤津・清元・哥沢・三味線・琴など数々の芸事を習う。9歳で少女歌舞伎団の団員として全国への巡業に赴く。大正13年(1924年)、13歳の時に地元の芸者置屋に入り花柳界入り。その後芸妓になる。
芸者の小唄勝太郎の唄う「島の娘」のヒットによって旋風を起こした鶯歌手(芸者歌手)ブームによって、二匹目の泥鰌を狙ったコロムビアレコードが白羽の矢を立てたのが、美貌と美声で評判だった芸妓の豆千代であった。生来、芸事を好んだ豆千代は、地元の応援もあって名古屋の料亭「五月」の一室で哥沢のテストを受けて合格し、昭和8年(1933年)「戀はひとすじ」で日本コロムビアから専属歌手デビュー。
翌年には、当時の人気歌手・松平晃と歌った「曠野を行く」がヒット。さらに昭和10年(1935年)には、同じくデュエットを組んだ松平晃との共演による「夕日は落ちて」が、折りしも満州国建国による大陸ブームの波に乗り大ヒット。時代に後押しされスター歌手の仲間入りを果たす。
一躍、流行歌手となってからもレコーディングのたびに岐阜から汽車で上京し、独り公園で熱心に歌を稽古するという日々を続けた。「廻り燈篭」「貫一お宮」「浮名三味線(お初の唄)」と地道にヒットを続け、昭和17年(1942年)には「狸御殿シリーズ」の大映映画「歌う狸御殿」に出演し、高山広子の継母役を演じた。この映画で豆千代に目を付けた大映の永田雅一は、映画界入りを勧めるが、「歌で食べられなくなったらお世話になります」ときっぱりと出演を断ったという逸話が残っている。
戦後、歌手としてはレコード会社に所属しなかったが、映画出演やステージに活躍する一方、とんかつ屋を経営するなど多才な面を見せた。昭和26年(1951年)、レコード製造を再開したタイヘイレコードと契約し専属となる。海外資本の参加により、社名がマーキュリーレコードとなっても活躍し、「そんなこと知らない」「雨の明石町」などがヒットした。
昭和40年代の懐メロブームにも時折登場し、「夕日は落ちて」や「浮名三味線」などを東京12チャンネルの音楽番組「なつかしの歌声」で披露している。その頃、豆千代の歌手生活の集大成とも言うべきLPアルバム「明治一代女」が発売された。また、古巣のコロムビアで故郷の岐阜の民謡や、端唄、小唄、明治大正の流行小唄などを盛んにレコーディングした。晩年は地元岐阜で歌手としても活動し、平成に入ってからもNHKラジオ放送「歌謡大全集」に出演したが、平成16年(2004年)3月22日に93歳で没した。
代表曲
編集- 恋はひとすじ (1934.3)
- 曠野を行く 共演:松平晃 (1934.10)
- 夕日は落ちて 共演:松平晃 (1935.9)
- 作詞:久保田宵二/作曲:江口夜詩/編曲:江口夜詩
- 廻り燈篭 (1935)
- 作詞:久保田宵二/作曲:江口夜詩/編曲:
- 貫一お宮 共演:松平晃 (1935.12)
- 作詞:高橋掬太郎/作曲:江口夜詩/編曲:江口夜詩
- 風になよなよ (1936.2)
- 薄野 (1936.8)
- 作詞:高橋掬太郎/作曲:佐々紅華/編曲:佐々紅華
- 浮名三味線(お初の唄) (1937.4)
- 作詞:邦枝完二/作曲:大村能章/編曲:大村能章
- 泣くなんて馬鹿よ (1952.1)
- そんなこと知らない (1952.6)
- 作詞:牧喜代司/作曲:島田逸平/編曲:島田逸平
- 天龍しぶき (1953.4)
- 作詞:島田芳文/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
- 雨の明石町 (1953.12)
- 作詞:島田芳文/作曲:摩耶潔/編曲:島田逸平
- 照る日くもる日 (1954.12)
豆千代が普及に努めた岐阜民謡
編集- 「郡上節」(郡上踊り「かわさき」)
- 「岐阜音頭(おばば)」
- 「どんどいつ」(根尾踊り「どどいつ」)
- 「ホッチョセ」
- 「高山音頭」