諸口十九
諸口 十九(もろぐち つづや、1891年2月3日 - 1960年4月17日)は、日本の元俳優、占い師である。本名同じ。大正末期から昭和初期にかけて、松竹蒲田撮影所の二枚目俳優として一世を風靡し、俳優廃業後は諸口 悦久(もろぐち よしひさ)を名乗って占い師に転向、断易の大家として知られた。
もろぐち つづや 諸口 十九 | |
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1923年の写真、満32歳。 | |
本名 | 同 |
別名義 | 諸口 悦久(もろぐち よしひさ) |
生年月日 | 1891年2月3日 |
没年月日 | 1960年4月17日(69歳没) |
出生地 | 日本 福井県大野郡大野町(現在の同県大野市) |
死没地 | 日本 東京都中野区道玄町(現在の同区本町) |
職業 | 元俳優、占い師 |
ジャンル | 新派、新劇、歌劇、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1920年 - 1936年 |
配偶者 | 無 |
主な作品 | |
『お坊ちゃん』 『カラボタン』 |
来歴・人物
編集1891年(明治24年)2月3日、福井県大野郡大野町(現在の同県大野市)に生まれる。
1907年(明治40年)、満16歳の時に上京し、旧制福井県立大野中学校(現在の福井県立大野高等学校)から旧制成城中学校(現在の成城中学校・高等学校)に転校する。ところが、翌1908年(明治41年)には中退して、新派俳優藤澤浅次郎が後継者養成のため私財を投じ、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)にあった牛込高等演芸館を校舎に開校した東京俳優養成所(後の東京俳優学校、1911年閉校)の第1期生として入所、同期には岩田祐吉、田中栄三、上山草人らがいた。1911年(明治44年)2月、満19歳の時に同校主催の第2回試演会で初舞台を踏み、同年6月に有楽座で卒業公演を行ったのち同校を卒業。卒業後は、上山草人の所属する近代劇協会に加わり、有楽座の土曜劇場などに出演、新劇や歌劇の舞台に立つようになる。1913年(大正2年)5月には、稲富寛、二代目市川猿之助らと吾声会を設立し、関西地方や九州地方など各地を巡業した。
1920年(大正9年)5月、満29歳の時に、設立して間も無い松竹蒲田撮影所に入社。まもなくその美貌を生かし、白塗りの二枚目俳優として次々と主演作を撮る。特に川田芳子とのコンビは大人気となり、初期の松竹を支えた。しかし、当時の若手スター筑波雪子と浮き名を流し、撮影所長城戸四郎と対立し、俳優をやめる[要出典]。
1927年(昭和2年)、36歳を迎えるころ、21歳の筑波雪子とのラヴ・アフェアの末、筑波とともに蒲田を退社、独立プロダクション「諸口十九社」を設立する。二川文太郎を起用して1作『美代吉殺し』を製作、マキノ・プロダクションが配給したが失敗、同社は解散する。続いて「諸口十九・筑波雪子一座」を結成、同年12月京都座に出演するが、筑波は諸口との関係を清算して松竹蒲田に戻った[1]。
一方、諸口は、トーキーとともに復活、太秦発声映画、松竹蒲田、東京発声映画製作所と数年転々とした[2]後に、45歳になる1936年(昭和11年)、廃業した。
その後は、辻占い師に転じ、晩年には「現代五行易の祖」の一人にあげられた。
おもなフィルモグラフィ
編集関連書籍
編集- 「日本無声映画俳優名鑑」(無声映画鑑賞会/編、株式会社マツダ映画社/監修)