諫早武春
諫早 武春(いさはや たけはる)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)15代当主。
諫早武春 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 弘化4年3月30日(1847年5月14日) |
死没 | 文久2年7月8日(1862年8月3日) |
改名 | 益千代(幼名)、武春 |
墓所 | 長崎県諫早市西小路町天祐寺 |
主君 | 鍋島斉正、直大 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 諫早鍋島家(諫早氏) |
父母 | 諫早茂喬、鍋島斉直娘・於民 |
出自
編集諫早家は龍造寺隆信の又従兄弟家晴の子孫。藩主鍋島氏の旧主君龍造寺氏の一族で、鍋島氏を憚って諫早氏を称す。家紋は「上り藤」。代々藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領している。藩内の家格は親類同格。龍造寺氏一族として、藩内で大名並みの知行二万六千石と強い影響力を持つ。
略歴
編集弘化4年(1847年)3月30日、諫早邑主14代・諫早茂喬と正室・於民(藩主鍋島斉正の妹)の長男として誕生。幼名は父と同じ益千代。
嘉永元年(1849年)2月25日、父・茂喬が死去。益千代はまだ幼いため、叔父・諫早茂孫が諫早家の家督を相続。嘉永5年(1853年)3月、茂孫が隠居して6歳で家督を相続した。幼い益千代に代わり、母於民の兄・神代賢在(藩主鍋島斉直の庶兄)が家政を監督した。
長崎への異国船の到来が頻繁になったことから、藩主斉直から、長崎港警備の強化のために、長崎に近い領内矢上村に家臣を駐屯させるように命じられる。長崎防備の費用に充てるため、領内尾島他の干拓開墾を許された。
安政5年(1858年)5月、長崎港警備に家中一同励んでいることを藩主斉正に賞された。万延元年(1860年)藩主・鍋島斉正次女・恒姫と婚約。
参考文献
編集- 諫早市史
- 中野礼四郎 編『鍋島直正公伝. 第4編』 - 国立国会図書館デジタルコレクション