覚法法親王
平安時代の法親王
覚法法親王(かくほうほっしんのう、寛治5年12月29日(1092年2月9日) - 仁平3年12月6日(1153年12月22日))は、平安時代後期の皇族・僧。白河天皇の第四皇子。母は源顕房の娘師子[1]。真言宗仁和寺第四世門跡。高野御室・勝蓮華寺獅子王宮とも称される。
覚法法親王 | |
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続柄 | 白河天皇第四皇子 |
称号 | 高野御室、勝蓮華寺獅子王宮 |
身位 | 法親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
寛治5年12月29日(1092年2月9日) |
死去 |
仁平3年12月6日(1153年12月22日)(享年63) |
父親 | 白河天皇 |
母親 | 源師子 |
役職 | 仁和寺第4世門跡 |
略歴
編集異母兄である覚行法親王のもとで出家・受戒し、法名ははじめ真行と称し、のちに行真と改め、さらに覚法と改めた。長治2年(1105年)覚行の没後に仁和寺寺務に就任。寛助・範俊から灌頂を受け、天永3年(1112年)親王宣下を受けている。保延5年(1139年)には自らの観音院を御願寺として東寺に準じる灌頂会を開催することを勅許された。保延7年(1141年)には鳥羽上皇受戒の際には受戒の師をつとめた。皇子誕生や天皇の病気平癒のために孔雀経法を修している。真言密教の事相に詳しく仁和寺御流を創唱している。
系図
編集71 後三条天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
72 白河天皇 | 実仁親王 | 輔仁親王 | 篤子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
73 堀河天皇 | 覚行法親王 | 覚法法親王 | 媞子内親王 (郁芳門院) | 源有仁 (有仁王) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
74 鳥羽天皇 | 最雲法親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
75 崇徳天皇 | 77 後白河天皇 | 76 近衛天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||