襄陽府
概要
編集1119年(宣和元年)、北宋により襄州が襄陽府に昇格した。襄陽府は京西南路に属し、襄陽・鄧城・宜城・穀城・中廬・南漳の6県を管轄した[1]。
1274年(至元11年)、元により襄陽府は襄陽路総管府と改められた。襄陽路は河南江北等処行中書省に属し、録事司と襄陽・宜城・南漳・棗陽・穀城・光化の6県と均州に属する武当・鄖の2県と房州に属する房陵・竹山の2県、合わせて1司2州10県を管轄した[2]。1364年、朱元璋により襄陽路は襄陽府と改められ、湖広等処行中書省に転属した。
明のとき、襄陽府は湖広省に属し、直属の襄陽・宜城・南漳・棗陽・穀城・光化の6県と均州を管轄した[3]。