袁 敞(えん しょう、生年不詳 - 117年)は、後漢官僚政治家叔平豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。

経歴

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袁安の子として生まれた。若くして家学である『孟氏易』を伝授された。蔭官により太子舎人に任じられた。和帝のとき、将軍・大夫・侍中を歴任した。108年永初2年)10月、東郡太守として出向した。同年のうちに洛陽に召還されて太僕に任じられ、109年(永初3年)に光禄勲に転じた。115年元初2年)12月、劉愷に代わって司空となった。袁敞の子が尚書郎の張俊と交友関係にあり、省内の機密を漏洩した。このため袁敞はその罪に連座して116年(元初3年)に免官された。袁敞は剛直で権貴におもねらなかったため、外戚の鄧氏一族に憎まれた。117年(元初4年)4月戊申[1]、袁敞は自殺した。

子女

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脚注

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  1. ^ 後漢書』安帝紀

伝記資料

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