蜂須賀 宗英(はちすか むねてる)は、阿波徳島藩の第7代藩主。

 
蜂須賀 宗英
蜂須賀宗英像
時代 江戸時代中期
生誕 貞享元年4月9日1684年5月23日
死没 寛保3年2月30日1743年3月25日
改名 勘次郎(幼名)、隆泰(初名)、宗英
墓所 徳島県徳島市下助任町興源寺
京都府京都市上京区清浄華院
官位 従四位下阿波守侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
阿波徳島藩
氏族 蜂須賀氏
父母 父:蜂須賀隆喜、母:不詳
養父:蜂須賀宗員
兄弟 隆長、芳、宗英
友姫ら
養子:宗純宗鎮元姫
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生涯

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興源寺の墓所(徳島県徳島市下助任町)

蜂須賀隆喜(第2代藩主・蜂須賀忠英の五男)の三男。幼名は勘次郎、初名は隆泰(たかやす)。号は潜外、通称は宮内。はじめは中老や家老として藩政に参画していたが、若くして隠居し京都などに住んだ。

享保20年(1735年)6月10日、蜂須賀宗員の死去に際し末期養子となり、52歳で徳島藩第7代藩主となった。同年8月15日、将軍徳川吉宗御目見した。同年12月11日、従四位下・阿波守に叙任した。後に侍従に任官した。同日、徳川吉宗の偏諱を受けて宗英(「英」は祖父・忠英の1字を取ったもの)と改名した。

元文4年(1739年)12月22日、隠居し、養子宗鎮に家督を譲る。隠居後は潜外と号した。

寛保3年(1743年)2月晦日、江戸で死去。享年59。遺体は京都へ運ばれ、清浄華院に葬られた。

宗鎮以後、蜂須賀宗家は他家からの養子が続き、宗英は正勝家政至鎮の男系子孫では最後の藩主となった。

蜂須賀宗英と清浄華院

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蜂須賀宗英の墓は京都の清浄華院にあり、これは歴代徳島藩主で唯一、徳島以外にある墓である。宗英の娘・友姫の嫁ぎ先の公家東園基楨が清浄華院の檀家であり、友姫が葬られているという縁である(友姫の死は宗英が藩主になる以前のことである)。また、前述のように自身も藩主になる以前、京都に住んでいたことがある。宗英の墓参りのため、以降の歴代藩主は京都を訪れるようになった。

2011年3月、清浄華院の境内に徳島藩主ゆかりの蜂須賀桜が植樹された。

系譜

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参考文献

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  • 『蜂須賀家記』

外部リンク

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