藤原順子
仁明天皇女御
藤原 順子(ふじわら の のぶこ、大同4年(809年) - 貞観13年9月28日(871年11月14日))は、第54代仁明天皇の女御であった人物。皇太后。藤原冬嗣の長女で母は尚侍藤原美都子。通称は五条后である。
藤原 順子 | |
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第55代天皇母 | |
皇太后 | 仁寿4年4月26日(854年5月26日) |
太皇太后 | 貞観6年1月7日(864年2月17日) |
誕生 | 大同4年(809年) |
崩御 |
貞観13年9月28日(871年11月14日) |
陵所 | 後山階陵 |
別称 | 五条后 |
氏族 | 藤原氏(北家) |
父親 | 藤原冬嗣 |
母親 | 藤原美都子 |
配偶者 | 仁明天皇 |
子女 | 文徳天皇 |
女御宣下 | 天長10年(833年)11月 |
皇太夫人 | 嘉祥3年4月17日(850年6月1日) |
立后前位階 | 従三位 |
略歴
編集仁明天皇の東宮時代に入侍した。仁明天皇の寵愛を受け、天長4年(827年)、道康親王(のちの文徳天皇)を生む。天長10年(833年)仁明天皇の即位後、11月に女御となり従四位に叙される。承和9年(842年) 承和の変により恒貞親王が廃太子され、道康親王が立太子。承和11年(844年)1月従三位に叙される。
嘉祥3年(850年)、仁明天皇没。文徳天皇の即位後、皇太夫人となる。仁寿4年(854年)、皇太后となる。貞観3年(861年)2月、落飾。6月受戒(戒師:天台座主円仁)。貞観6年(864年)、太皇太后となった。貞観13年(871年)9月28日崩御。墓所は後山階陵。
伝承
編集- 『日本三代実録』によれば、容姿が美しい穏やかな女性だったと伝えられる。(巻二十 清和紀二十「美姿色。雅性和厚」より)
- 順子が「五条后」と称されたのは、その邸・東五条院(五条宮)に由来する。
- 『伊勢物語』第五段によると在原業平と順子の姪である藤原高子が密かに恋に落ちたのは、高子が入内前、この邸にいた時で、門からは入れない業平は、子どもが踏みあけておいた塀の崩れから忍び込んだらしい(「…門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり」)。第四段によると、ほどなく高子は別の場所(藤原良房邸・染殿か)に移されてしまったらしい。
- 宇治郡に安祥寺を建立した、また藤原乙牟漏が建立した大原野神社を勧請したとも伝えられる。