若尾謹之助
日本の実業家、政治家
若尾 謹之助(わかお きんのすけ、1882年〈明治15年〉10月24日[1] - 1933年〈昭和8年〉1月25日[1][2][3])は、明治末から昭和初期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。
若尾謹之助 わかお きんのすけ | |
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『山梨県肖像録』より | |
生年月日 | 1882年10月24日 |
出生地 | 日本 山梨県 |
没年月日 | 1933年1月25日(50歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治学科卒業 |
前職 | 実業家 |
現職 | 実業家 |
所属政党 | 研究会 |
配偶者 | 若尾ハル |
親族 |
父・若尾民造(甲府市長) 義兄・若尾璋八(貴族院議員) 義弟(従弟)・若尾幾太郎(衆議院議員) 伯父・2代 若尾幾造(衆議院議員) |
在任期間 | 1925年9月29日 - 1929年4月30日 |
経歴
編集山梨県出身[2]。若尾民造の三男として生まれる[1][4][5][6]。1911年(明治44年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し実業界に入る[1][2][4][5][6]。
1917年(大正6年)父の死去に伴い三男であったが二人の兄が早逝していたため家督を相続した[1][4][5][6]。若尾銀行頭取、若尾保全社長、常盤生命代表取締役、若尾貯蓄銀行代表取締役、日本電化代表取締役、日本電気炉工業取締役、日本電球取締役、東京電燈取締役、東京瓦斯取締役、日本機械製造監査役、甲府商業会議所常議員、甲府市商業学校商議員などを務めた[1][2][4][5][6]。
1925年(大正14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し[7]、研究会に所属して活動し1929年(昭和4年)4月30日に辞職した[2][8]。
著作
編集- 『おもちゃ籠』若尾謹之助、1915年。
親族
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g 『山梨百科事典』877頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』229頁。
- ^ a b 『日本及日本人 (2月15日號)(267) 116コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e 『甲州財閥物語 新編』120頁。
- ^ a b c d 『財界物故傑物傳 下巻』643-644頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第9版』ワ16頁。
- ^ 『官報』第3931号、大正14年9月30日。
- ^ 『官報』第698号、昭和4年5月1日。
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年、298頁。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 実業之世界社編輯局編『財界物故傑物傳 下巻』実業之世界社、1936年。
- 『山梨百科事典』山梨日日新聞社、1972年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 斎藤芳弘『甲州財閥物語 新編:明治、大正、昭和激動の「日本」を舞台に暴れ回る山梨の経済人たち』山梨新報社、2000年。